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自由の福音の手紙

私たちは自由が大好き。人間の歴史は「○○からの解放」(○○の中にはいろいろな言葉が入ると思います)や「自由を勝ち取る戦い」の連続。しかし私たちは自由になっているか。平和になっているか。自由を主張すればするほど誰かを傷つけていないか。自由を守る法律ができれば、その法律を破り自由を奪う犯罪が生まれていないか。犯罪の増加で監視カメラも増加し、社会全体が生き苦しくなっていないか。はたまた自由を求め革命を起こしたのに独裁国家になっていないか。自由を求め自由になったはずなのに、自由じゃなくなっている。実はそんな歴史を繰り返していないか。クリスチャンはどうか?自由とは何かを知っているのか?パウロはガラテヤ人への手紙で、このことに光を当てています。ということで、11月3日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章1節〜5節から、「自由の福音の手紙」と題してメッセージでした。

自由の福音の使徒 1-3節

まず差出人であるパウロ自身。「パウロ!使徒!」と書き始め、人間的な誰にも有無を言わせないパウロの使徒性が記されます。パウロは元々ユダヤ教の教師。バリバリの信仰者で教会を迫害し撲滅しようとしていました。しかし復活のイエス様と電撃的な出会いをし、クリスチャンになり、イエス様を伝え、教会を生み出す者へと変えられました。劇的変化。しかしそれは他のクリスチャンによって回心し、使徒としての訓練を受けたのではありません。人々が彼を使徒と認めようが認めまいが、すでに使徒として行動していたのです。そして最初に生み出したのが、『ガラテヤの諸教会』でした。会堂があったわけではありません。その地域のクリスチャンホームネットワークです。しかしパウロたちが去った後、問題発生!この手紙の書き出しは、パウロが「どないしたんや!」と、息せき切って、ピンポンも押さずに、いきなり玄関に飛び込んでくるような勢いを感じます。しかしその中にも『わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵み(優しさ)と平安(平和)とが、あなたがたにあるように』と祈ることを忘れません。血相を変えているけれど、教会へのまなざしはどこまでも優しく、平和を願っているのです。

自由の福音の要約 4-5節

次に自由の福音の使徒が、ガラテヤの諸教会に伝えた自由の福音の要約。私たちの自由は何からの自由か?私たちが『わたしたちの罪』から解放されて、『今の悪の世(時代)から救い(えぐり)出』されることです。私たちは罪(神様に向かず聞かず従わず、的を外した行い)によって、死を招き、世界を破壊し、暴虐を地に満たしてきました。そういう悪の世界・時代を造り上げてきた。そういう傷つけるものであふれたこの世界から、えぐり出すようにして『わたしたちを』助け出すために、神様は御腕を突っ込んで下さった。それが御子イエス様。イエス様は『わたしたちの罪のために』『わたしたちの父なる神の御旨に従い』ご自身を献げて下さった。全て『わたしたち』のため。普通、他人の自由ではなく、自分の自由を求めます。「自由を勝ち取るために多くの血が流された」とか「犠牲が必要だ」とも言います。自由の拳を振り上げ他人を傷つけたり、自分の自由を他人に押しつけることさえあります。しかしこの神の親子は、自分たちが傷つくこと覚悟で、血を流すこと覚悟で、死をも賭す覚悟で、『わたしたち』を自由にしようと、その犠牲の全てを払われたのです。どこまでも優しい。どこまでも『わたしたち』の自由と平和を願って一生懸命。パウロはそんな神様を『わたしたちの父なる神』と2度も呼びます。愛おしい。誇らしい。そしてほめたたえずにはおれなかったのです。

パウロ!使徒!おれだよ!一体どうしたんだ!神の親子の福音はこうだよ!忘れたのか?思い出してくれ!ガラテヤ教会に起こった問題は何だったのか?コリント教会の問題は比較的わかりやすい問題でした。ガラテヤ教会の問題は現代の教会にとっても大きな問題。実に巧妙に私たちの思いや生活に入り込んでいて、なかなか気付きにくい問題。この手紙によって光当てられ、自由の福音を味わってまいりましょう。

11月10日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章6節〜10節から、「偽りの福音への『しこう』」と題してメッセージです。


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