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偽りの福音への「しこう」

「しこう」には「指向」「嗜好」「信仰」をあてはめます。最後は「ん」が入りますがご容赦下さい。これらの言葉は、「もの」や「人」に対する関係の深まりを表します。最初はその「もの」や「人」に向く。目に入り、関心が生まれる。指向です。触れて、馴染んで、好きになる。嗜好です。そして切っても切れない深い関係になっていく。信仰(信頼)です。それは良い方向に進んでいく場合もありますし、悪い方向に進んでいく場合もあります。私たちが自由と言う時、「自分の好きに何でもやりたい」という意味合いが多分にないでしょうか。自分が指向する嗜好にどんどんはまっていく。ガラテヤ教会にも、そんな自由を持ち込もうとする人々がいたようです。ということで、11月10日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章6節〜10節から、「偽りの福音への『しこう』」と題してメッセージでした。

偽りの福音への指向 6節

パウロや!どうしたんや!と、ピンポンも押さずに、いきなり玄関に飛び込んでくるような勢いで、手紙を書き始めたパウロ。その勢いは止まりません。『不思議でならない』と驚きを隠しません。その動揺と驚きのわけが記されます。『わたしたちの父なる神』が、「さあ、こっちへおいで。ここにいれば自由だよ。平和だよ。救いだよ」と、『キリストの恵みの内』であるイエス様の十字架の救いに招き入れて下さいました。その神様の懐から、イエス様の救いから急激に離れ、『違った福音』に移っている!なんで?どうして?わけわからん!『違った福音』とは?詳細は後にわかりますが、昔なじみのものの見方・考え方・行動です。別に新しいことではありません。新しいのは自由の福音の方です。新しいからまだよくわからない。だからどれだけ不自由だろうと、昔なじみの方に振り向き、惹かれ、戻ろうとした、ということのようなのです。

偽りの福音への嗜好 7節

ここに『ある種の人々』登場です。『違った福音』は『福音というべきものでは』ありません。偽りの福音です。『キリストの恵みの内』こそ自由の福音。ここでは『キリストの福音』と記します。私たちは高みを目指すより低きに流れる方を好む傾向がないでしょうか。「法律は守るよりも破るためにある」なんて言う人もいます。「悪口」「誘惑」「悪友」という言葉はよく使われますが、その反対語はあるのか?使うのか?フェイクニュースの方が拡散が早く、信じられやすいとも言われます。それと同じように『キリストの福音』よりも偽りの福音を好みやすいのではないか?ガラテヤ教会の人々は元々、聖書も父なる神様も知らない異邦人。罪を罪とも思わず、悪を悪とも感じずに生きてきたところもある。しかし自由の福音に与り、罪や悪が多少なりともわかった。ですから以前と同じ罪や悪に誘っても応じません。『ある種の人々』はそんなあからさまなことはしなかった。ガラテヤ教会の人々にもなじみのある、ものの見方・考え方・行動によって、偽りの福音を忍び込ませようとしたのです。

偽りの福音への信仰 8-9節

『福音に反することを宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである』と2度もパウロは記します。結構強烈。容赦なし。これからも結構強烈な言い回しが出てきます。それほどまでに根深い問題がある。ここに『天からの御使であろうと…のろわるべきである』とあります。創世記の「へび」(元御使)を思い浮かべずにはおれません。へびは神様とは全く反対のことを言ってアダムとエバを振り向かせました。指向です。食べてはならぬ善悪を知る木の実が食べるに好ましいものに見えるようになった。嗜好です。そして2人は食べた。へびに従う信仰です。その結果は?神様の祝福を失い呪いの状態に陥った。へびは全てを失わせたのです。そんな輩こそ呪われるべきだ!世界が始まって以来、人類を苦しめ続けてきた偽りの福音とそれを語る者への、パウロの激しい怒りがあふれている。せっかく苦しみから解放された人々(教会)が再び苦しみに舞い戻っていく事への悲しみと無念さがあふれているのです。

『今わたしは、人に喜ばれようと(認められようと)しているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし今なお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい』。「あの人に愛されたい!認めてもらいたい!」という心理につけ込んで人を隷属させる人々は古今東西たくさんいます。しかしそういう人々は無意識・無自覚でつけ込んでいる場合も少なくありません。最近パワハラ問題が世間を賑わせていますが、これも多くの場合、無意識・無自覚です。なぜならそういう人々は、そんな社会や時代に育ってきたからです。それが当たり前の、なじみ深い、ものの見方・考え方・行動だからです。この問題は世間に限りません。牧師でさえ気付きにくい問題なのです。どれだけ根の深い問題か。パウロはこの手紙で光を当てるのです。『キリストの僕』なんて、結局自由なんてないではないかと思われますか?今までは『悪の世(時代)』の僕だった。そこには自由がない。これからは『キリストの僕』。そこに自由がある。指向するものが変われば、がらりと変わるのです。

11月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章7節〜12節から、「福音の口コミ力」と題してメッセージです。


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