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マンネリではない再臨待望生活

私が小学生から中学生にかけて、聖会で「終末」「再臨」「携挙」「患難時代」などのメッセージをよく聞きました。当時は冷戦時代。核兵器による世界大戦がいつ起こるかも知れない、という緊張感の中で聞くメッセージに、「自分は携挙されず、患難時代に取り残されたらどうしよう」と恐怖を覚えました。しかし。再臨とは恐怖しながら待つものなのか?ということで12月8日(日)の待降節第2週礼拝は、マタイによる福音書第24章32節〜51節から、「マンネリではない再臨待望生活」と題してメッセージでした。

マンネリになっていないか? 37-39節

先週に続くイエス様のお話。ノアの時代に触れておられます。神様は天地を創造され、アダムとエバをエデンの園に置かれましたが、2人はへびに向いて聞いて従い、罪(的を外す)を犯しました。その後、人々は神様という的をますます外し、悪を行い暴虐(破滅)を地に満たしました。素晴らしいはずの世界は見る見る生き地獄と化します。そんな時代にノアは生きます。ノアは神様に向いて聞いて従い、箱舟を造ります。当時は「上の水」が存在し、今とは違う環境で、人々は災害なるものを知りませんでした。ですからなぜそんな巨大な舟を造るのか不思議でなりません。ノアに質問したでしょう。ノアはやがて洪水が来ることを語ったでしょう。もし危機感を持つ人がいたなら第2第3の箱舟を造ったでしょう。でも誰も造らなかった。雨が降り始めてなお、ノアの箱舟の扉は開いていました。しかしノアの家族以外誰も乗り込まなかった。そして旧世界は滅びました。マンネリ。くり返す中での慣れこそ恐るべし。どんなに破滅的な世界になっていても破滅的と思っていない。聖書には「はじめから何も変わっていないじゃないか!」とあざける者が出てきて欲望のままに生活するとも記します。しかし。再臨前の兆候は間違いなく、じわじわと、繰り返しながら、私たちを取り囲んできています。対岸の火事では決してない。何事もなかった日常と、只毎ではない日常が急速に混じり合ってきている。マンネリではなく、破滅に向かって進んでいる。やっぱり恐怖のどん底でしょうか?

日々イエス様の言葉に従って生活する 32-35節、43節、45節

イエス様は3つのたとえで私たちの再臨待望生活を語られます。1つ目はイチジクのたとえ。イチジクは毎年葉をつけます。しかし同じように見えて違う新しい葉をつけます。しかも葉を見て怖がったり残念がったりしません。実がなることを期待します。患難を見て恐れるのではなく、イエス様の再臨をいよいよ期待するのです。2つ目は強盗に備える家の主人。ここに『わかっているなら』(経験せずとも、教えられて知っている)、『わきまえて』(経験して知っている)という二つの言葉が使われています。強盗は事前通告しません。しかし自分の家にも強盗は来るかも知れない。周りの経験を元にイザという時に備えるわけです。イエス様の再臨は強盗とは違って喜ばしいこと。正確に「いつ」かはわからないけれど来ることはわかっている。今までの繰り返される出来事や経験を踏まえて備えるのです。そして3つ目は主人の帰りを待つ忠実な思慮深い僕。今のような時計やスマホや交通手段があるわけではありません。主人が「いつ」帰ってくるかは正確にはわからない。でも帰ってくるのは確か。その間、僕は主人の残した言葉に聞き従い、他の僕仲間を大切に養い、それぞれの持ち場立場を日々果たせるようにするのです。私たちも同じです。日々新しくイエス様に向いて聞いて従い、互いに励まし仕え愛し合う。それぞれの持ち場立場を全うするのです。イエス様は『よく聞いておきなさい』『よく言っておくが』と繰り返され、『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない』と言われます。イエス様の言葉に日々従い続ける先に、再臨に続く私たちの復活と新しい天と地における新生活が、現実として「ある」のです。

私たちは患難に取り残されることを恐れる必要はありません。私たちはみんな患難を経験してきたし、患難の中にいるのです。クリスチャンもそうでない人も主の再臨まで患難を共にするのです。患難はもう少し続くだけ。ノアも600年間、生き地獄のような世界に身を起き続けました。私たちはそういった聖書が繰り返し記す、過去から未来に渡る歴史に学び備え、どんな世の中に身を置こうとも、変わらずにイエス様の言葉に聞き従い続けるだけなのです。

12月15日(日)は待降節第3週礼拝。マタイによる福音書第1章23節〜25節から、「始終一貫インマヌエル」と題してメッセージです。


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