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普段着の冒険者

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。主の年2020年も皆さんの上に、主の祝福があふれ、栄えあるみわざが現され、御名に栄光を帰する1年となりますようお祈りいたします。

さて。冒険者と聞いてどんな方々を思い起こすでしょうか。未知なる世界や体験を求めて、危険を顧みず出かけていく人。十分な準備を経てたくさんの人々の声援に送り出される人。前人未到の偉業を成し遂げ、賞賛を受け、歴史に名を残す人。いろんな冒険者を思い出します。しかし聖書は私たちみんなに冒険者であれと語ります。『あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得る』。これが?どんな冒険者?ということで、元旦礼拝は伝道の書第11章1-6節から、「普段着の冒険者」と題してメッセージでした。

それは自分の無知を知る人です 3-4節

ここにいくつかの自然現象と、その観察に基づく人間の営みが記されています。30年ほど前、月や火星での長期生活に向けての研究のため、砂漠に地球環境を人工的に再現した、外界とは隔てられたドームで100年計画の実験が行われました。しかし数年も続きませんでした。人間は数千年という長い年月をかけ、自然界を観察し、理解し、活用してきました。しかし「知っている」ということだけでは生きていけない、そのまま突き進むことは無謀だということです。まだ知らないことの方が圧倒的に多いということです。私たちは「想定外の事故」「経験したことのない暑さ」などという言葉を耳にするようになりました。私たちはどこに行かなくても、普段の生活の中に未知なることが山ほどあるのです。普段の生活が冒険の場。そこで大切なのが「私は知らない」ということを知る、ということなのです。しかし「私は知らない」というだけでは十分ではありません。

それは神様を知る人です 5-6節

ここに『あなたは知らない』が繰り返されます。私たちは両親を通して子どもが誕生することは知っています。どのように体が形成されるかも知っています。しかし妊娠するかどうかや霊がどうやって宿るかまではわかりません。また種まきや収穫も季節や天候を見て最適な時期はわかっても、またいくら品種改良しても、芽の出方や実のつき方まではコントロールできません。私たちは「天任せ」という言葉を耳にします。人工衛星のミッションに携わる方が「やるべきことは全てやりました。あとは神様に祈っています」と言われていました。やるべきことをやり倒した人は、自分の手の届かない所は人間を超える存在に頼るしかない、ということも知っている。その存在とは?私たちは知っています。この世界を創造された聖書の神様。神様を知ることなしに、この世界を冒険することは無謀なのです。普段の生活を進むこともままならないのです。自分は知らないということを知ると共に、神様を知ってその言葉に聞いて従う時、新たな一歩が踏み出せる。自分にできること、すべきことを知るようになるのです。

それは自分の分を分かち合う人です 1-2節

『あなたのパンを水の上に投げよ』『あなたの一つの分を七つまた八つに分けよ』。『朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない』(6節)。これは自分にあるもの(与えられたもの)を、多くの人に「投げて」「分けて」「まく」。朝な夕なに「投げて」「分けて」「まき」続けるということです。『あなたは、どんな災が地に起こるか知らないからだ』。ここにも『あなたは…知らないからだ』。私たちはこの国でそのことを何度も経験し、よく知っています。でもその中で、だからこそ私(たち)にできることを、聖書は語りかけてくれるのです。しかし投げても、自分が想像するような、目に見える結果が、すぐに現れないかも知れない。でも投げ続けた人は『多くの日の後、それを得る』のです。私たちはどんな状態や状況でも、どんな悲惨な中でも、神様がそこからどんな栄光のみわざを起こされるのか?どんな喜びや慰めや励ましを生み出されるのか?期待しながら自分にあるものを分かち合い続けるのです。それが神の普段着の冒険者です。

2020年、私たちにどんな冒険が待ち受けているか?そのために神様は私たちに何を今、与えておられるか?それを投げ、分け、まき続けましょう。結果は神様が生み出されます。私たちに想定外な、経験したことのない、豊かな『義の実』を結ばせて下さいます。

1月5日(日)は青年祝福礼拝で、エレミヤ書第1章1節-19節から、「若者にすぎないと言うな」と題してメッセージです。


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