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幸い。隠れたことをさばかれる神様

子どもはかくれんぼが大好き。また悪いことをした時、親や先生の目から隠れることもあります。それは大人になってもあまり変わらない。いえ、質(たち)が悪くなる。白昼堂々悪事を働くこともありますが、多くの場合こっそり隠れて行っている。子どもや弱い人や高齢者を貶めてほくそ笑んでいる。見つからない。捕まらない。隠れおおせている。そんな『悪しき者』について、神様に怒りをぶちまけている人がいます。『主よ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます』。え?神様まで隠れてる?なんで!ということで、2月2日(日)の礼拝は、詩篇第10篇1-18節から、『幸い。隠れたことを見ておられる神様』と題してメッセージでした。

全てを見ておられる神様 3-5節、8-9節

悪しき者は他人の財産や生命を巧妙に奪い、私腹を肥やし、のうのうと生きています。ある意味賢い人たち。誇り高ぶり、神様に求めず、神様を求めません。「おれが悪いことをしてもおれに悪いことは起こらない。富み栄えている。神は何も手出ししない。神などいないからだ。おれは安泰だ」。しかし彼らは隠れて事を行っている。口で「神はない」と言いつつ、行動は「神はいる」と認めているようなもの。それは今に至るまで変わらない。どれだけ逮捕されてもニュースになってもおさまることはありません。「誰もいない。見られていない」という思いが、人の本音と行動をあぶり出しているのです。では神様は?神様は隠れておられるのではありません。私たちから見えないだけ。そして神様が隠れているように見えるほど、私たちの本音と行動が露わになる、と言えるのです。神様は全てを見ておられます。実際、彼らの本音と行動はつぶさに知られ聖書に記されているわけですから。

決して忘れない神様 10-11節、12,14-15節

悪しき者の大言壮語はエスカレートします。自分が貶めた『寄るべなき人』が苦しむ姿を見て、「神は顔を隠してお前たちを忘れた。神はお前たちを見捨てたんだ」と嘲笑います。神様はなぜすぐに助けてくれない!悪しき者によりも、神様に怒りを覚えなくもありません。私たちはどうする?第10篇の作者は神様に祈り叫びます。『神はない』『神は忘れた』と豪語する悪しき者に煽られて神様に怒りを覚えたとしても、そこでとまらない。とまったら悪しき者と同じ側にいることになる。とまらないで神様に怒りをぶつけ、「私を忘れないで下さい!」と祈りの手を上げる。私たちの祈りこそ、私たちの本音と行動の表れ。詩篇第10篇は第9篇の続きと言われます。第9篇は神様を忘れる者は神様にも忘れ去られ、神様を尋ね求める者は神様に覚えられ救われる、という内容でした。第10篇も同じ。神様は祈り求める者を決して忘れない。悪しき者が長く幅をきかせているように見えるのは、悪しき者の悪を『一つも残さないまでに探り出』し、明らかにし、最終的かつ決定的なさばきを下すためなのです。

必ずさばかれる神様 16-18節

『さばき』とは悪事をさばくだけではなく、全ての事に正しい評価を下し、正当な報いを与えることを意味します。それができるのは神様だけ。神様だけが、私たちが散々露わにしてきた本音と行動を全て見ておられるからです。とかく人は弱い人の立場を知らないことが多いし、知ろうとしないことも多い。でも神様はしっかり覚えて下さっている。そして豊かに報いて下さいます。先ほど第10篇は第9篇の続きだと言いました。ということはダビデが作者。イスラエルの王。その彼が『主はとこしえの王』『もろもろの国民は滅びて主の国から跡を絶つ』と記します。イスラエルでもない、地上のどの国でもない『主の国』。主とはイエス様。主の国とは神の国。それは私たち一人一人の心から始まり、やがて新しい天と地という形をもって出現します。私たちは、神様の最終的かつ決定的なさばきの後、この国に入るか跡を絶つかのどちらか。永遠に忘れ去られるか永遠に主の前に喜び楽しむかのどちらかなのです。

世の中は監視社会になりつつあります。それでも人は悪いことをやめません。息苦しくなるばかり。神様はどんな思いで見ておられる?睨みつけておられるわけじゃない。あいつもこいつも地獄行きだと怒り狂っておられるのでもない。憐れみのまなざしを注いでおられる。「今は恵みの時、救いの時。まだ間に合う。まだチャンスがある。だから早くイエスを信じ私に立ち帰れ」と。必ずさばきの日が来る。最期の審判。神様は事をうやむやにはされない。全て明らかにし、それぞれに正当な報いを与え、落とし前をきちんとつけられます。私たちはこの神様を求め信じ救われている。私たちにとって最期の審判は、新しい天と地に入る喜びの門でしかない。なんと幸いなことでしょうか。

2月9日(日)の礼拝は、詩篇第11篇1-7節から、「幸い。主に寄り頼む」と題してメッセージです。


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