カテゴリー

自由の福音の権威

パウロは熱心なユダヤ教徒であり教師だった。教会を撲滅しようとした。でも心底、神様を信じ、従い、良いことをしている!と疑わなかった。でも復活のイエス様に出会い、自由の福音に打ち砕かれ、自由の福音の使徒となった。生育や学歴や社会的地位は関係ない!ただ神様の啓示、イエス様という啓示によった!とパウロ。でも。単なる自己主張を「神は私に示されたのだ!」と権威づけしようとしているだけじゃないか?案外、私たちが自由だと思っていたことが不自由だったり、クリスチャンのつもりで言っていることが、昔馴染みのものの見方・考え方・行動の押しつけだったり。本当にそれは神様からの権威なのか?ひとりよがりか?紙一重と言えるわかりにくい問題に光を当てましょう。ということで、3月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章1-10節から、「自由の福音の権威」と題してメッセージでした。

神の啓示によって与えられ 1-2節,6節

パウロは復活のイエス様に出会って後、しばらくアラビヤや故郷に退いていました。そこをバルナバに見出され、アンテオケ教会で活動開始。二人は宣教旅行に出かけ、ガラテヤ教会を生み出します。そして帰ってきたところ、異邦人クリスチャンへの割礼の是非を問う問題が起こり、パウロ、バルナバ、テトスはエルサレム教会へ出かけました。そして本会議の前に『重だった人たち』『柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ』とのやりとりがあったようです。ヤコブはイエス様の弟。ケパはペテロでヨハネと共に十二使徒のメンバー。生のイエス様と生活した、最初の教会の中心的存在。ヤコブ、ペテロ、ヨハネたち、ユダヤ社会にある教会が正当な流れなのか?パウロ、バルナバ、テトスたち、異邦人宣教の前線教会は違う流れなのか?パウロは神様の前ではそんなことは関係ないと言います。パウロは啓示によって自由の福音を信じ、啓示によって異邦人宣教に出かけ、啓示によってエルサレム教会に来たと言うのです。全て神様の啓示。だから権威がある!いやいや。だからそれが大丈夫かって話し。

人に示すことで確認される 2節,4-5節

パウロは上から「私こそが神の啓示を受けた!私が正しい!私に従え!」とは主張しませんでした。パウロが受けて、異邦人に伝えた『福音の真理』を『人々』と『重だった人たち』に示したのです。無駄にならないよう、丁寧に証しし、理解してもらえるよう努めました。その結果、異邦人クリスチャンであるテトスは、ユダヤ教的慣習の割礼を強いられることはありませんでした。しかしここに出てくる『人々』の中には、『にせ兄弟』と言われる人々もいたようです。第1章の『違った福音』をガラテヤ教会に持ち込んでかき乱す『ある種の人々』とも重なります。ヤコブ、ペテロ、ヨハネ。パウロ、バルナバ、テトス。にせ兄弟、違った福音を持ち込むある種の人々。どれも違うように見えて同じ教会にいる。どこの教会にも入り込んでいる。その違いを見分けるものは何か?それが『福音の真理』。パウロはそれを丁寧に証ししたのです。そして『重だった人たち』はそれをはっきり認めたのです(割礼も福音の真理も、パウロはこの手紙で後に詳しく触れていきます)。

互いの役割を果たすために用いられる 7-9節

ペテロもパウロもお互い『福音の真理』に立つ者であると共に、「それぞれ役割が違う」ことも認め合うことができました。パウロだけに啓示と権威があるのではなく、神様が教会全体に一貫した啓示を与え、それぞれの役割に沿って権威を付与されている。ある教会に、有名な牧師が牧会しておられた有名な大教会から転会して来られた方がありました。事ある毎に「あの牧師はこうしていた。あの教会ではそうしていた。なぜあなたは、この教会はそうしないのか。そうすべきだ」と訴えに来られました。その方はその教会にとって大切な存在です。でもその方の言うことだけを聞き、そのようにするとしたら?そこにはもはや、神様の大きさも豊かさもユニークさも自由もありません。神様に権威がある。神様のお心はぶつからない。私たちはその一貫性と調和の中にある。数いる牧師も教会(兄弟姉妹)も、それぞれに違った役割がある。神様のお心と私たちの違いを理解しないと問題が起こる。私たち全体の目的は、自由の福音(の真理)をあらゆる人々に分かち合うこと。そのために、それぞれが神様から賜った恵みに従って違った分を果たす。そのために権威は用いられるのです。

その権威が独りよがりなものかそうでないか。以上の三つのプロセスを通してわかってきます。すぐにはわからないし時間はかかる。私たちは『福音の真理』にしっかりと立ち、権威を謙虚に用い、それぞれ果たすべき分を丁寧に果たし、あなたでしか届けられない所に、この教会でしか届けられない所に、自由の福音を分かち合ってまいりましょう。

3月8日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章11-14節から、「自由の福音の後退」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved