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神の奥義。御霊によって悟る

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雄大な自然公園にはレンジャーという案内人がいます。レンジャーから草木の名前や動物の営みを教えてもらいます。それまでも私たちは自然に囲まれて生きていましたが、実際に自然の中に足を踏み入れ、自然を体感することであらためて自然の素晴らしさ、豊かさ、大切さを感じます。そして今まで以上に自然を身近に感じながら生活するようになります。さて、8月14日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第2章6節〜16節から、「神の奥義。御霊によって悟る」と題してメッセージでした。奥義とは外からはわからないけれども中に入ればわかる世界です。では神の奥義とは?そして神の奥義にはレンジャーのような案内人がいます。一体誰か?

神の奥義。それは栄光に至る救いの世界

パウロは先に、神の奥義の入り口は「十字架につけられたキリスト」だと語りました。このキリストを私が信じるだけで神の奥義に入れました。この世の知恵は必要ありません。しかし、神の奥義に入った「円熟している者の間では、知恵を語る」と記します。外からはわからないけれど中に入ればわかる知恵。キリストに信頼しない限りどんなに頑張っても見えず、聞こえず、思い浮かびもしない神の知恵。それが天地創造の初から続く、神様の救いの計画であり、神様の祝福の世界です。私たちは一言で「救い」と言います。「救われました」と言います。しかし救いがどれほどのものか理解しているか?パウロはここで、私たちが救われて、神様から受ける「栄光」について触れます。この栄光は、キリストが地上に来られる前にもっておられた栄光であり、キリストが地上に来られて十字架で死んで三日目によみがえり、40日後に天に上って受けられた栄光でもあります。つまりキリストにあるダブル栄光を救われた者にも与えてくださるのです!これ、半端ない救いじゃないですか?パウロはここで神の奥義の全てを語ったわけじゃありません。聖書全体がこの奥義を語っています。だから聖書全体を理解する必要がある。そのために必要なのが案内人です。

神の御霊が案内人

「神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さった」とパウロは記します。「啓示」とは、今まで隠されていたものが明らかになる、ということです。奥義がわかる、ということです。御霊は復活したキリストの霊、神の御霊、聖霊とも呼ばれるお方。この御霊が「十字架のキリスト」を信じた私を迎えて下さり、神の奥義を案内して下さいます。私は琵琶湖の近くに住んでいます。高校や大学のボート部が練習しています。漕ぎ手は進行方向に背を向けて座ります。前が見えません。しかしボートの最後尾に舵手(コックス)が進行方向に座って指示を出してくれるので、ボートは目標に向かって進むことができます。御霊の案内はこれに似ています。私たちには将来は見えません。見えるのは今か過去かです。しかし御霊によって聖書を読み進めると、過去に書かれた聖書の中に未来のゴールを見ることができる。スタートからゴールまで、天地創造から栄光に至るまで、壮大な救いと祝福のストーリーを見渡すことができるのです。それだけではありません。壮大な救いと祝福のストーリーは私たちの日常生活からかけ離れたものではなく、実は身近なものとしてあることも悟るのです。

神から賜った恵みを悟る

「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである」。恵みとはあってもなくてもいいものではありません。私たちが生きる上で絶対に必要なものです。ダブル栄光に至る永遠の命もそうです。また私たちを取り囲む天地万物もそうです。また結婚を通して、家族の絆を通して、神様の命と知恵と愛を地に満たしていく営みもまた恵みです。つまり私たちにとって身近な存在が神から賜った恵みそのもの。実はすでに私たちを取り囲んでいたものばかり。でもどうです?私たちにとって身近な存在を疎ましく思ったり、傷つけたり、傍若無人にふるまって破壊したりしていませんか?今まで神様の恵みだなんて思ってもみなかったもの。恵みとして扱っていなかったもの。しかしそれを、「十字架のキリスト」を通して神の奥義に入り、御霊の導きによって、「神から賜った恵み」として再発見していくのです。そうやって過去の恵み、すでにある恵みを再発見し大切にするところに、将来の恵み、新しい恵みの新発見もあるのです。天地創造から栄光に至る、神の奥義の壮大で、豊かで、すばらしい世界をあらためて身近に体験していけるのです。

8月28日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章1節〜9節から、「霊の人として育ちなさい」と題してメッセージです。


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