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支え合う祈り

2019年度は祈りについて少々重きをおいて、聖書に耳を傾けてきました。詩篇からも順々に学んでいますが、それとは別にも学んできました。今回はその3回目。イエス様のゲツセマネにおけるお祈りから学ばせていただきましょう。ということで、3月29日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章36-46節から、「支え合う祈り」と題してメッセージでした。

祈りの支えを求められた 36-38節

イエス様が十字架につけられる前夜。イエス様と弟子たちは最後の晩餐をすませゲツセマネに来られました。12弟子の1人、イスカリオテのユダはすでに食事の席を外して共にいません。じゃあ11弟子が一緒?他にも弟子はいました。ここに何人いたかはわかりません。しかしイエス様はその弟子たちに『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と言われました。さらにペテロとヤコブとヨハネの3人と先へ進み、彼らには『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』と言われ、1人先へ進まれます。『すわる』という言葉には「任命する」という意味もあります。弟子たちの配置は、「最前線」に赴くイエス様を援護する布陣のようです。また『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』は「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである」です。体の死ではなく魂の死。最後の審判まで、私たちの肉体の死はあっても、魂の死はありません。魂の死は罪による究極の滅びを意味します。それを肩代わりする十字架がイエス様に迫っていました。その十字架が「最前線」。イエス様はなぜ3人の弟子を他の弟子とは別扱いされたのか?えこひいき?私たちにとって親しい人とそうでない人の違いは何でしょうか。お互いどれだけわかり合っているか?ではないか。会話や祈りは生活習慣です。その中で関係は深まり、支えられ、励まされる。イエス様も同じ。イエス様は神の子。お一人で何でもできた。でも一世一代の大勝負、全人類の救いがかかる十字架に向かうために、たくさんの弟子の祈り、より身近な弟子の祈りの支えを求められたのです。

繰り返し祈られた 39-46節

イエス様は最初『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と祈られ、次に『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』と祈られ、そして『また行って、三度目に同じ言葉で祈られた』とあります。最後には『立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』と立ち上がられた。祈りが短い。2度目はもっと短く、3度目は内容すら記されない。神の子だからといって悩みを隠さず、格好いいことも言わず、言葉巧みでもない。とても素直で簡潔。そして「魂が死ぬほど」の状態から『立て、さあ行こう』と毅然とした態度へ変化した!弟子たちは座るだけ、いるだけ、眠るだけ。不意を突かれ、混乱し、逃げ出した。イエス様は『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい』と言われました。祈らないと誘惑・不安・恐れが入り込む。「四六時中祈り続けるなんて無理!」ですか?イエス様は『ひと時も』と言われました。ひと時でいい!イエス様が十字架に向かう直前の祈りですらこれなんです。祈りは神様との日常会話。生活習慣。どんな場所でも、どんな時にも、どんな事態でも、イエス様のように素直で簡潔な祈りを繰り返せばいい。祈る中で、変えられ、整えられ、前進できるのです。

神の子でさえ祈られ、祈りの支えを必要とされました。私たちにおいて何をか言わんやです。祈らなかった弟子たちのあられもない姿は祈りの大切さを教えてくれます。イエス様のようにしっかりと立って、前進するために、自分のためにお互いのために祈りましょう。そうやって教会の全ての営みは、じりじりと前進し、福音は伝わり、神の家族の輪が広がるのです。

4月5日(日)は棕櫚の主日礼拝。ルカによる福音書第23章32-38節から、「ゆるしの十字架」と題してメッセージです。


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