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神のみわざが家族に

私たちは身近に起こる出来事に「こんなことになったのは、○○のおかげなんじゃないか」「△△のせいではないだろうか」「××をしたから降りかかったんじゃないか」と良くも悪くも理由を考えることはないでしょうか。遠くの誰かが同じような出来事に直面していても、あまり考えなかったことがいざ自分に降りかかったら、頭をフル回転しないでしょうか。今日はイエス様に出会った生まれつき目が見えない人と、その人を取り巻く人々の反応から、神様の視点を学びたいと思います。ということで、5月10日(日)の礼拝は、ヨハネによる福音書第9章1-41節から、「神のみわざが家族に」と題してメッセージです。

まずは御言に従った

弟子たちはイエス様に質問します。『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか』。今でも何かあると、こんな考え方をすることがないでしょうか。しかも「他人の詮索」をするだけなんてことが。イエス様は『本人が罪を犯したのでもなく、また、両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』と言われ、その人の目に泥を塗り『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』と言われ、その人は『行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った』。え?御礼も言わずに?ビックリしたのは近所の人たち。当然質問します。誰が治したのか?彼は『知りません』とそっけない返事。そこへパリサイ人登場。彼らの反応は否定的。安息日に目を治すとは医療行為だ!ゆるされない!目を治したやつは『神から来た人ではない』。近所の人々もパリサイ人も今まで、彼には何もしてこなかったし、今もビックリしたり批判するだけ。でも彼には何かが起こり始めていた。彼はイエス様の言葉通りにしただけ。でもそのことで大きな変化が始まっていたのです。

段々わかってくる

パリサイ人は何度も同じことを質問します。彼はイエス様のことを『預言者だと思います』と答えます。事は次第に大きくなり、彼の両親も呼び出されます。両親は、それが息子とは認めるものの、誰が治したか知らぬ存ぜぬのよそよそしい態度。もしイエス様をキリストと認める者があれば、パリサイ人が会堂から追い出すことに決めていたのを知っていたからです。みんな、誰が癒したかを知っていたということです(彼だけがわかっていなかった)。両親は息子が見えるようになったことを喜ぶよりも、パリサイ人を恐れました。しかし彼は違いました。最初は『知りません』。次に『預言者だと思います』。そして『あの方は神から来た』と告白するに至ります。目を見張る変化があり、筋が通り、確信に満ちている。今まで目が見えず、物乞いをし、聖書も読めずにいたのに、聖書の学者の向こうを見事に張っているのです。

ついにはっきりわかる

ユダヤ人たちは『おまえは全く罪の中に生まれていながら、わたしたちを教えようとするのか』と、彼を会堂から追い出しました。彼らは彼に負けたのです。プライドが許さない。負け犬の遠吠え。それと共に、彼を『イエスをキリストと告白する者』と認めたのです。近所の人々、両親、パリサイ人、ユダヤ人。かたや目が見えなかった彼。どちらが罪の中にある?どちらの筋が通っている?どちらが輝いている?先の人々は混乱を極め、堂々巡りし、全然突き抜けない。喜びはなく、恐れや憎しみに埋没している。かたや彼は?散々に言われながらも輝いている。なぜ?『わたしは、この世にいる間は、世の光である』と言われたイエス様に従ったから。イエス様は彼に会われます(「彼を見つけ出して」とも訳せる)。彼はそれが信じたいと思っているイエス様とはまだ気付きません。イエス様は言われます。『あなたは、もうその人に会っている(もうその人を見ている。もうその人がわかっている)』。彼はイエス様を礼拝します。イエス様を神の子キリストだとはっきり認めたのです。

さて。彼に現れた『神のみわざ』は何?目が見えるようになったこと?では今まで見えていた近所の人、両親、パリサイ人、ユダヤ人たちはどうなの?『見える』と言いながら、何もわかっちゃいなかったのではないか。彼に現れたみわざ。それは、イエス様に出会い(見つけ出され)、イエス様という光によって、回復され成長し輝き出したこと、ではないか。自分や家族に問題を抱えていませんか?我関せずを決め込みたくなるような人が身近にいませんか?誰かのせいにしていることはありませんか?自分もその人もみんな神様に創造された唯一無二の存在。神様はみんながイエス様の光に輝いて、みんなに神のみわざが現れてほしいのです。大事なことは?目が見えるようになった彼は言います。『神は…神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れて下さいます』。彼はイエス様のことを言ったのですが、彼も御言に従った。私も御言に従うのです。私から『神のみわざ』が現れ始めます。

5月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章21-15節から、「神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい」と題してメッセージです。


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