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自由の福音の真理〜恵みによる

キリスト教を十字架教と言う人もいます。十字架は死刑の道具。これまでの歴史の中で、多くの人が様々な罪のゆえに十字架刑に処せられてきました。キリスト教はイエス様の十字架を語り、掲げ、伝え続けています。イエス様の十字架は他の十字架と何が違うのか?パウロはそれを『神の恵み』だと語ります。なぜ?ということで、6月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章17-21節から、「自由の福音の真理〜恵みによる」と題してメッセージでした。

キリストがつけられた十字架 17-18節

ここだけ読んでもようわからん!パウロは、これまでちょくちょく登場していた『違った福音を語るある種の人々』『にせ兄弟ら』『割礼の者ども』を念頭にしているようです。彼らは「割礼」「律法の行い」にこだわり、それを異邦人クリスチャンにも強要しました。異邦人がユダヤ教に改宗するなら「割礼」「律法の行い」は当然とされていました。その感覚で、異邦人がクリスチャンになったら「割礼」「律法の行い」は当然としたのです。しかしパウロはそれを全否定します。ユダヤ人も異邦人も神様に義とされ救われるのは、イエス様の真実に対する信頼のみ(これ、前回の話)。そこで彼らは反発するわけです。「俺たちを異邦人と同じ罪人にするのか!イエスは十字架にかかった。十字架は犯罪人への刑罰じゃないか!俺たちがそこまでの罪人だと?」。そういう意味で、イエス様をユダヤ人さえ罪人にしてしまう『罪に仕える者』と表現したようです。しかし『断じてそうではない』とパウロ。自由の福音を説くパウロが、罪で縛り付ける十字架を説くならば、矛盾した者、自由に対する『違反者』になります。罪なきイエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪のため。どんな小さな罪も、どんな大きな罪も、どんな人の罪も負うためです。そして私たちの罪に死なれました。永遠の栄光の体に復活されました。それは私たちの罪がゆるされた証拠。罪と死からの解放の証拠。私たちの永遠の将来の確証です。イエス様が普通の人間なら罪人止まりの不自由な十字架のまま。誰の罪のゆるしにもならない。でももう十字架にかかっていない。復活した!イエス様の十字架は、みんなを生かす自由の十字架になったのです。

私もつけられた十字架 19-21節

イエス様の十字架は罪を葬り去りました。ですから復活したイエス様は罪の影響を受けません。イエス様は「罪に対して死んで本来の命に生きている」と言えます。これが『神に生きる』状態。と同時に、イエス様の十字架は律法の支配も葬り去りました。ですから復活したイエス様は律法の影響を受けません。イエス様は「律法に対して死んで本来の自由に生きている」と言えます。これも『神に生きる』状態。しかもイエス様の十字架は私たちをも『神に生きる』者として下さるのです。イエス様の十字架はみんなの十字架。みんなの十字架を私のものに。そのために必要なのは、やっぱりイエス様の真実に対する信頼のみ。20節最後はこう訳せます。「私のためにご自身を与えた神の子の真実の中に生きている」。神の子イエス様の真実とは十字架。その十字架にわが身を任せることで生きる!ふかふかのソファや最高の温泉にわが身を任せる様をイメージしてみて下さい。十字架に自分を縛り付けるのではなく、十字架にわが身を任せるのです。すると聖書は『キリストと共に十字架につけられた(完了形)』と宣言するのです。私は自分の罪のために何もせず、痛い思いもせず、死んでもいないのに、すでに罪ゆるされ、義とされ、自由と救いをいただいた。これは恵み以外の何ものでもない。恵みとは私たちに絶対必要なものだけれども、私たちでは生み出せず、いただくしかないものを言います。「自然の恵み」がそう。「救いの恵み」もそう。でも、自分のことを棚に上げて「良い行いをしないと空気も水もいただけないぞ」「あの人が信じるだけで救われるなんて虫が良すぎる」なんて思ってないか?そう思った瞬間、あなたが『神の恵み』を否定する。あなたにできもしないことを人に押しつけるようになるのです。

何を行うかはいただいた後の話。それはまたパウロが触れます。まずは、そして常に、イエス様の十字架は私への神の恵み。私をくつろがせ、癒し、回復し、のびのび成長させる、至れり尽くせりの十字架なのです。

6月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章1-5節から、「自由の福音の真理〜常に原点に」と題してメッセージです。


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