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幸い。あなたとずっと一緒

私は聖書を読んで疑問に思うことがたくさんあります。2千年以上前に記された書物。国も文化も言語も違う。現代日本人である私には当然わからないことがある。しかし疑問に思うことは不信仰ではない。神様に問いつつ聖書に向き合う。疑問が解けていく喜びはひとしお。疑問から信仰がなお引き出される。ダビデもたくさんの疑問質問を神様に投げかけます。その一つが『主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか』。ということで、7月5日(日)の礼拝は、詩篇第15篇1-5節から、「幸い。あなたとずっと一緒」と題してメッセージです。

目を惹く模範的行い 3、5節

ここに模範的な行いが記されます。説明なしでも正しいとわかる。3千年前の国や文化や言語の違うダビデが記しましたが今でも通用します。でもハードルが高い!わかっちゃいるけど難しい!第15篇は第14篇と対をなしています。第14篇は『神はない』と言う『愚かな者』、『神をたずね求める』ことなく、『主を呼ぶことを』せず、『民をくらい』『貧しい者の計画をはずかしめようと』とする者を記し、『善を行う者はない』と繰り返しました。第15篇に登場する人と対照的。『愚かな者』は、まず神を認めず呼ばずたずねない。すると人を食い物にし虐げ善を行わず、腐れ果てていく。ではその逆は?まず神を認め呼びたずねることではないか?行いはその後に付いてくる。「正しい行い」だけに目を奪われるとハードル高すぎ。誰も主の幕屋にも聖なる山にも迎えられそうにありません。でも第14篇と第15篇を共に見ることで、行いよりも先に大切なことがある、ということがわかるのです。

まずは全き者であれ 2節

ここに『直く』『義』『真実』という大切な言葉が出てきます。この『直く』が「全き者」という時に使われる言葉です。全き者と聞くとつい完璧な者をイメージしがち。でも違う。神様に向いて聞いて従う人、神の恵みを素直にいただく人、でした。『義』は私たちの行いによるものではなく「信じて義とされる」もの。神様から一方的にいただくもの。では何を信じるのか?それが神様の『真実』。神様の言葉が真実であると信じること。それが私たちの真実。アブラハムが良い例です。アブラハムには弱さも失敗もあった。神様は彼に『全き者でありなさい』と言われましたが、彼がしたことは神様の言葉を信じること。詩篇も第1篇からそのような人をずっと描いてきたのではないでしょうか。主の教えを聞いて喜び、主を認め求め寄り頼み、主に語り安らぎ主と共に立ち上がり、どんな時でも主こそ私の神だと告白する人。弱さや失敗はある。だからこそもっと主に寄り頼み食い下がり懐に飛び込む!私たちは「正しい行い」の前に、このような全き者であるべきなのです。

するととこしえに動かされない 4節

ここに神様とシンクロする者が記されます。神様と共にいつもある者は、ものの見方、考え方、その行動もシンクロしてくるのではないですか。先ほどの『直く』『義』『真実』には、それぞれ『歩み』『行い』『語る』という動詞が付いてきます。いずれの動詞も普段(不断)の生活。行いとは成長に伴うもの。「いつも目の前にいる人」から教えられ、共に体験し、身につけていく自然なもの。背伸びしてもできるものではない。成長すると自ずとできるようになる。第15篇の行いは、その結果を記しているのです。最初にダビデは『あなたの幕屋に宿るべき者はだれですか、聖なる山に住むべき者はだれですか』と質問しました。いずれもゲスト滞在的な言葉が使われています。しかし、実はずっとダビデは主と共にいたし、主はずっとダビデと共にいて下さった。そして彼は成長し成熟し、ついに『とこしえに主の宮に住む』(詩23:6)に至るのです。質問にまさる待遇を主は用意しておられるのです。

『あなた』とは主です。私たちの主イエス様は地上にある間、弟子たちとずっと一緒でした。弟子たちの弱さや失敗や裏切りがあっても。そしてイエス様が天に帰られたら今度は主の御霊がずっと一緒。それは私たちも同じ。私が主と共にいる以上に、主が私という幕屋に住んで下さっている。何という幸い。「正しい行い」を参考にしつつも、それに目を奪われるのではなく、ずっと一緒にいて下さる主から目を離さないように。

7月12日(日)の礼拝は、詩篇第16篇1-11節から、「幸い。黄金に変えられる」と題してメッセージです。


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