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弟子たちへのテスト

私たちにとって、テストとはどのようなものでしょうか?あまり喜ばしくない?テストはテストのためにあるのではありません。テストによって、学んで身についた所、身についていない所がわかる。テストは学んだことをより身につけるスタート。テストが目標ではなく、学んだことを使いこなすことが目標。イエス様は弟子たちに、座学・実践・座学・実践と、繰り返し御言を聞かせ、わざを見せてこられました。種まきのたとえに始まる集中講義もありました。そしてテスト。ということで、7月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章35-41節から、「弟子たちへのテスト」と題してメッセージです。

どんな状況にも 35-37節

『向こう岸へ渡ろう』。イエス様は舟の上から、湖岸にいる人々に語っておられました。語り終えて、イエス様を舟に乗せたまま、弟子たちは舟を出しました。他にも数艘あったようです。すると突風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。ガリラヤ湖周辺の地形と気候によって、時に起こる事です。しかし12弟子のうち、少なくともペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師で、ガリラヤ湖をよく知り、舟の操船もお手の物だったはず。彼らにしてみれば日常です。しかし彼らでさえ、手に負えない状況になることもある。私たちにも得意分野や専門分野があって、それなりの経験を積んでいたとしても、どうにもならないことに見舞われることはあるのではないでしょうか。

イエス様は共におられる 38節

「もうだめだ!」と思い至った時、弟子たちはイエス様に目を向けます。えっ?イエス様は艫(とも)の方で寝てるやんか!弟子たちはキレ気味に『先生。わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と叫びます。『おぼれ死ぬ』とは『滅びる』という言葉が使われています。絶体絶命のピンチ!でも。イエス様は湖岸で話しておられる時から、ずっと舟に乗っておられました。嵐になろうがなるまいが、ずっと一緒でした。私たちはイエス様が救い主で、共にいて下さることを信じているはずです。そして平穏無事な時もあれば絶体絶命のピンチもある。いつもどうしている?ピンチの時だけ、「イエス様!どうしてこんな目に遭わせるんですか!罰ですか?お見捨てになったんですか!」と、イエス様をどやしてたたき起こすのでしょうか。

御言に聞いて従う 39-41節

『静まれ、黙れ』とイエス様が、風と湖に向かって言われると、風はやみ、大なぎになりました。イエス様は神の子。人間の体をまとってイエス様になられましたが、天地創造の前から父なる神様とおられ、天地万物を創造されたお方です。だから自然界は創造者の言葉に従ったまでです。ここから、『黙れ、静まれ』という御言によって、一瞬で台風は失せ去り、地震は鎮まり、気候変動は解決する!と言いたいのではありません。神様は天地創造後、「神のかたち」である人間の営みにこの世界を委ねてこられました。だから人間こそ、自然界以上に、御言に従うべきではないか?ということをイエス様は弟子たちに知ってほしかったのです。「私はいつもこんなに近くにいる。だからいつも私の言葉に聞いて従いなさい。ここに平安がある」と。弟子たちは目の前の問題に気を取られ、イエス様と御言を後ろの方へ追いやっていたのです。

弟子たちへの最初のテスト。なかなか大変なテストでしたが、身をもって学んだのではないでしょうか。彼らの生涯は問題(テスト)の連続でした。時にはマイナスとも思える結果をたたき出したこともありました。イエス様はそれでも彼らを捨てられなかった。彼らも信仰を失わなかった。イエス様が一緒だったから。イエス様はマイナスからでも彼らを成長させられました。私たちも、このイエス様と御言に信頼し、従ってまいりましょう。

7月26日(日)の礼拝は、詩篇第17篇1-15節から、「幸い。ひとみのような私たち」と題してメッセージです。


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