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きよめのプロセスと目的

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10月9日(日)〜10日(月)は、第62回京都聖会が京都聖徒教会を会場に行われました。聖会と名のつく集会のテーマはおおむね「きよめ」。私たちが所属する日本イエス・キリスト教団も「きよめ」を大切にする団体。では「きよめ」とは?単に罪を犯さなくなること?京都聖会が毎年掲げる聖書の言葉は「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」というローマ人への手紙第12章10節の言葉です。私たちが「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」るために、9日朝の礼拝ではローマ人への手紙第12章1節〜5節から、「きよめのプロセスと目的」と題してメッセージでした。

からだを献げる(第12章1節)

「そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。パウロは第1章〜第11章にキリストの救いの豊かさを記し、その救いをいただいたすべての人に向かって語ります。霊や心ではなくからだ。でもそんなことしたら自分がなくなる?生贄みたいで怖い?「ささげる」とは「側に置く」という言葉。私が幼い頃、父の膝の上によく座りに行きました。絵本を読んでくれたり、絵を描いてくれたり、いろんなことを教えてくれました。それは私の喜びでもあり父の喜びでもありました。私は父の膝の上で父の子らしく育ったと言えます。「あなたがたのからだを…ささげる」とはまさにそういうこと。キリストの救いによって神の子とされたなら自ら神の側に置く。そこから神の子としての成長、きよめが始まる。「からだをささげる」ことを「献身」と書きます。献身は牧師や宣教師になる人の犠牲的な行為というよりも、神の子となったすべての人が喜んでできる、当然で自然なことなのです。

心を新たにする(第12章2節)

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ…」。今度は心。「新たにする」とは「自分を変える」という言葉。「造りかえられ」とは「中身が変えられ続ける」という言葉。「自分を変えることによって、中身が変えられ続けなさい」。立場が神の子となったら中身が自動的に変わるのではありません。自分が変わることで変えられる。それは肉の力?人間的な努力?私たちは生まれてからずっと、この世のものの見方や考え方やそれに基づく行動を教えられて、それを自ら行って身につけて、世と妥協した自分をこつこつ造り上げてきたはずです。でもそのために努力した覚えあります?苦になりました?そんなことないですよね。今度は、神の子とされたなら、神様の物の見方や考え方やそれに基づく行動を教えられて、それを自ら行って身につけて、神の子らしくこつこつ変えられ続ける。そうやってきよめは身についていくのです。

キリストのからだを営む(第12章3節〜5節)

これが目的。きよめは個人にとどまらない。互いをキリストのからだとして結び合わせます。からだ、心、そして大きなからだ。クリスチャンや教会といえば、色白でロン毛で、白い服を着て、ほほえんでいるキリストをイメージして、みんな同じ色に染め上げて、うり二つの人が増殖することを目指していない?キリストは大きなお方。豊かなお方。一人や二人で、一つの教会や二つの教会で表せるようなお方じゃありません。私たちが神の子とされ、神の子らしく成長するとは、言い換えれば神様が創造してくださった本来の私を取り戻し、私に与えられている分と限界をわきまえ、私を適切に用いるようになることです。出過ぎることなく引っ込み過ぎることなく、私の分を果たし、そのことによって、互いを助け支え活かし、全体としてキリストの多種多様で大きな働きを営むのです。そこに「霊的な礼拝」が現実の姿を現します。礼拝はサービスです。日曜日の礼拝は献身の更新の時。礼拝はそこで終わりではなく、キリストのからだを営む一週間へと続くのです。私たちの多種多様な日常生活の具体的な営みが霊的なサービスなのです。その具体的な姿がローマ人への手紙第12章以降記されるのです。

次週、10月16日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章18節〜23節から、「すべてはお互いのもの」と題してメッセージです。


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