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滅びのただ中にある救い

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私が中学生の頃は冷戦時代。いつ第三次世界大戦や核戦争が起こるかわからないという緊張感が漂っていました。そんな折、当時の世界と黙示録の世界を照らし合わせ、終末時代に起こる様々な艱難の前にキリストの再臨があり、その時に空中携挙されるように、地上に取り残されないように、という話しをよく聞かされました。私は「どんなクリスチャンが空中携挙されて、どんなクリスチャンが取り残されるのか」不安で夜も眠れませんでした。空中携挙の時期についてはいろいろ解釈が分かれるところです。しかし解釈ではなく、聖書がどんな現実を繰り返し記しているかが大切です。ということで、11月13日(日)の礼拝は、創世記第7章1節〜第8章22節から、「滅びのただ中にある救い」という題でメッセージでした。

神に認められるところに救いがある

「主はノアに言われた、『あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである』」。ノアは「全き人」「正しい人」と記されます。それは完全な人というより神様に向いて聞いて従う人。神様の恵みを受け取って生きる人です。ノアは600年間(6章から100年が経過)、暴虐が満ちて破滅していた社会のただ中で、そのように生き、神様と共に歩み続けました。つまり神様を認め続けた。だからこそ神様もノアを認め続けられました。お互いの関係は認め合うところにあります。箱舟の入り口は雨が降り出したその日まで開いていました。ノアと同じように、神様を認める人があれば誰でも乗り込むことができました。しかしそんな人は一人もいませんでした。ノアも他の人々も同じ世界に生き、同じ箱舟が間近にあり、同じ洪水を体験しました。しかしノアは生き、他の人々は滅びました。その違いは神様と人、お互いが認め合っていたか否かなのです。

神に記憶されるところに救いと祝福がある

「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた」。箱舟の外側では滅びが進行中でした。箱舟の内側では新しい世界への新しい命が育まれていました。箱舟は胎内のような、ゆりかごのような役目を果たしていました。「心にとめる」という言葉は「記憶する」ということです。この言葉は救いや祝福と深い関わりがあります。「神はその人を心にとめられ、滅びる町から救い出された」とか、「神は彼女を心にとめられ、子どもを宿らせられた」というようにです。またキリストが十字架にかかり苦しまれている中、隣りの強盗はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。キリストは答えます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」。神様に記憶されるとは、その命が神様の前にあり続けることを意味します。神様と人、お互いが認め合い、記憶するとき、そこがたとえどんなところであろうとも、そのただ中に救いと祝福のわざがあるのです。

神に感謝するところに救いと祝福の更新がある

「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはない」。ノアたちは1年と十日して地面に降り立ちました。ノアが最初にしたのは神様に感謝を献げること。神様はその献げものの香りをかいで祝福を更新されます。「上の水」がなくなり、大陸も隆起沈降し、どこへ行っても温暖とはいかなくなりました。大気の大循環が始まり、暑さ寒さ、季節の変化、虹の出現をもたらしました。神様の創造世界は、最初の豊かさこそ失いましたが、それでも壮大で美しい山や渓谷、多様な生活を生み出し、石炭や石油をももたらしました。さらにはキリストの救いを用意されました。しかし私たちは、それらのものを神様に感謝しているか?感謝しないで、自然を破壊し、化石燃料を燃やし、悪をはびこらせ、暴虐を地に満たし、キリストの救いを拒否していないか?この世界はやがて火によってぬぐい去られる日が来ると聖書は記します。私たちは、艱難の前に携挙されるか後に携挙されるかが問題なのではありません。ノアを初め聖書に記された先輩たちは、艱難に遭遇し、艱難のただ中を生きました。問題にすべきは、たとえどんな中であろうとも、神様を認め感謝しているか、神様に認められ記憶されているか、なのです。そこに救いがある。そこに祝福があるのです。

11月20日(日)の礼拝は、創世記第9章1節〜17節から、「強化された祝福」と題してメッセージです。

 


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