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クリスマス序章

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キリスト誕生の様子が記されている聖書は、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、マタイによる福音書は系図で始まっています。私たちには馴染みの薄い系図。新約聖書を読み始めるぞ!と読み始めて早々、この系図で挫折した人もいるのではないかと思います。こんな系図に意味はあるのか?ということで12月4日(日)アドベント第二週礼拝では、マタイによる福音書第1章1節〜17節から、「クリスマス序章」と題してメッセージでした。

すべての人への救い

この系図には女性が5人出てきます。まずはラハブとルツを取り上げましょう。ラハブはカナン人。職業は娼婦。家族を養っていました。イスラエル民族がカナンの地に入り、最初に攻め落とすエリコに住んでいました。彼女はイスラエルの偵察隊をかくまい、逃がしてやり、後にイスラエルの民に加えられます。ルツはモアブ人。イスラエルに干魃があり、イスラエル人が近隣モアブに避難。イスラエル人とモアブ人の結婚があり、ルツもその一人。しかし夫に先立たれ、姑ナオミとイスラエルへ。そしてボアズと結婚。ボアズはラハブの子ども。そしてルツはダビデ王の祖父オベデを産みます。カナン人もモアブ人も選民イスラエルからしてみれば神の救いの対象外。しかしキリストはラハブやルツを通して生まれてくださいました。それは、選民イスラエルだけではなく、すべての人に神の救いがある!ということなのです。

すべての罪からの救い

次はタマルとウリヤの妻です。タマルはユダの長男に嫁ぎましたが長男死亡。次男に嫁ぎ直しますが次男死亡。ユダには三男もいましたが死なれては困ると、タマルを寡婦のままにしておきます。それは当時違法でした。タマルはユダにわからぬよう娼婦の格好をし、ユダによって妊娠。ユダは「どこで不貞を行った!」と激怒しますが、事情を知って自らの非を認めます。ウリヤの妻はバテシバ。ウリヤはダビデの忠実な部下。しかしダビデはウリヤの妻を寝取り、権力にものを言わせウリヤを戦死させます。しかしこの悪事は預言者に糾弾され、ダビデは罪を認めます。何ともドロドロした出来事。彼女たちではなく男たちがドロドロ。しかも神に選ばれた人々。しかし私たちは彼らを責められません。私たちにも自分を棚に上げた罪、隠し持っている罪があるからです。しかしキリストはそんな罪のど真ん中に生まれてくださいました。罪をあげつらって滅ぼすためではなく、罪を明らかにし取り除いて救うためなのです。

ただ信仰による救い

最後にマリヤです。マリヤはヨセフと婚約中でした。しかしヨセフと関係なしに妊娠し、男の子を産むと御使に告げられます。普通あり得ないことですし、当時の常識からすれば、ヨセフや親族に迷惑をかけ、姦淫の罪に問われ死刑になるかもしれません。神様何考えてんのっ!しかし御使は「恵まれた女よ、おめでとう」。マリヤは「お言葉どおりこの身に成りますように」。どっちも大丈夫かぁ?結果、ヨセフとマリヤは無事イエス様の出産を迎えました。マリヤの信仰告白があったからキリストはイエス(救い)としてこの世界に来ることができた。信仰があって救いが来た。私たちもイエス・キリストの救いが「この身に成りますように」と信仰告白することで救われます。これは妄信ではありません。私たちの理解できる範囲はたかが知れています。それでも私たちは多くの人を信頼して日々生活しています。ましてや神様です。神様は全時代、全地域を視野に入れながら5人の女性たちも、私たち一人一人も導いておられます。理解が及ばなくてもその導きは確か。マリヤのようにただ神様の言葉、その救いを信頼すればよいのです。

クリスマス序章はクリスマス女章と言ってもいいぐらいです。5人の女性たちを通して、神様からのプレゼント、イエス・キリストの救いが与えられました。このプレゼントを「この身に成りますように」と自分のものとして受け取っていただきたいと思います。

12月11日(日)の礼拝は、マタイのよる福音書第1章18節〜25節から、「クリスマスに苦しんだ男」と題してメッセージです。

 


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