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聖霊の力

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クリスマス。イースター。ペンテコステ。

キリスト教の三大祭り。

クリスマスは多くの人がご存じかと思います。キリスト誕生を記念する日。

イースターも随分知られるようになりました。キリスト復活を記念する日。

ペンテコステはまだ認知度が低いかもしれません。キリスト昇天後の聖霊降臨を記念する日。ペンテコステとは50番目(の日)を意味する言葉。キリスト復活(イースター)から50日後にあたる日。

この聖霊降臨なくして、聖霊の力なくして、教会の誕生はなく、キリストが全世界に宣べ伝えられることもなかった。

ということで、

5月15日の礼拝は、使徒行伝1章〜2章から「聖霊の力」と題してメッセージでした。

宣教の力がある

弟子たちは家に閉じこもっていました。彼らは今までキリストと共に歩みました。洗礼を受けていましたし、洗礼を授けさえしていました。イエス様の十字架の死を目の当たりにし、その復活を目の当たりにしました。イエス様をキリストと信じていましたし、その復活を喜びました。しかし、だからといって、閉め切った窓や扉を開け放し、「イエスは復活した!イエスこそキリストだ!」と飛び出しはしませんでした。しかしイエス様は弟子をしかりはしませんでした。「聖霊が降るのを待ちなさい。祈って待ちなさい」と言って天に上られました。聖霊にこそ宣教の力があるのです。

宣教の自由がある

その日は来ました。聖霊は降りました。あたかも激しい風が吹いてきたかのように。家をどんなに閉め切っていても、弟子たちの心がどんなに閉ざされていても、新しい霊の息吹は家を開け放し、弟子たちの心を解放し、内から外へ導き出しました。聖霊は私たちに宣教の自由を与えます。宣教する環境が自由になるというよりも、宣教する側の私たちを自由にするのです。

宣教の熱情がある

聖霊はあたかも炎が別れるように弟子たちの上にとどまりました。弟子たちは自由にされただけではなく、イエス様を伝えたいという、内から外へあふれ出す熱い思いが与えられました。聖霊は私たちに宣教の熱情を与えます。どんな人にもイエス様を伝える熱情。そしてどんな人をも温める熱情です。

宣教の言葉がある

聖霊はあたかも舌のように弟子たちの上にとどまりました。弟子たちは様々な国の言葉で語り出しました。弟子たちに与えられた自由と熱情は言葉となって内から外へほとばしり出ました。聖霊は私たちに宣教の言葉を与えます。誰が聞いてもわかる言葉、イエス様を伝える言葉、聖書を語る言葉、その人ならではの言葉です。

教会の誕生がある

聖霊は弟子たちを大胆に語らせ、大胆に行動させました。多くの華々しい奇跡が起こりました。大勢の人がイエス様をキリストと信じました。イエス様をキリストと信じる人の集まりは聖霊降臨によって教会となりました。そして教会は誕生と共に数の上で急激に成長しました。

聖霊の力は実によって現れる

私たちキリスト教会は、ペンテコステとか、聖霊のバプテスマと言うとき、使徒行伝2章に記されているような大胆な説教や華々しい奇跡や数の上での急激な増大を想像し、これがリバイバルだと思わないでしょうか?しかし使徒行伝2章に記された出来事は、弟子たちがミラクルパワーを身につけてスーパーマンになった出来事なのではなく、聖霊がどのようなお方で、どのような力を持っておられるかを記しているのです。弟子たちや教会はその後、落ち着きを見せ、様々な問題や困難や迫害を通して散らされていきます。その中で練られ、鍛えられ、整えられ、聖霊の実を結んでいきます。そこにこそ、消えることのない、揺るぐことのない、しぼむことのない、肩肘張ることのない、自由で温かで身の丈に合った宣教の力があるのです。

私たちにとって聖霊のバプテスマは、聖霊との人格的な出会いの時です。聖霊は私たちが信仰を持ち始めるときすでに働いておられます。洗礼を受け神の子として誕生するときも助産師さんのように働いておられます。神の子として誕生してからもずっと側にいてくださいます。お腹の中にいた赤ちゃんが、生まれてきた赤ちゃんが、いつも側にいてくれたお母さんをやがて「ママ!」と認識するときが来るように、共にいてくださる聖霊を認識するときが来る。人格的な聖霊との交わりがスタートするときが来る。人によっては、その出会いは洗礼前かもしれません。洗礼の時かもしれません。洗礼後随分経ってからかもしれません。また劇的な場合もあり、静かな場合もあります。そして聖霊がどんなお方であり、どんな力を持っておられるかがわかってくる。しかしその力を振り回すことは危険です。聖霊の実として身につくことが大切。では聖霊の実とは何か?それはまたいつか触れることにします。

何はともあれ私たちそれぞれにペンテコステが必要です。劇的であろうと静かであろうとどんなスタイルであろうと必要です。今まで出会いがないから聖霊がおられないのではありません。今までもすぐ側におられました。「父よ」と呼ぶように、「主イエスよ」と呼ぶように、「御霊よ」と呼べばいいのです。

5月22日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙1章1節〜3節から「ある地方教会への手紙」と題してメッセージです。

 


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