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愛の配慮で建てる教会

学校や会社など、子供から大人にいたる様々な組織にいじめやハラスメントが見られます。そういう問題はありません、と公表していたにもかかわらず、被害者の訴えや自死があってはじめて発覚する、ということも少なくありません。発覚してようやく加害者が加害を認める。いやそれでも認めない、ということもあります。コリント教会にも様々な問題がありました。しかしその問題を認識できていませんでした。そして強い人によって弱められている人がいました。ということで、4月30日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第8章1節〜13節から、「愛の配慮で建てる教会」と題してメッセージでした。

知識を振りまわさない

コリントの町には異教の神々をまつる神殿があり、市場で売られる肉はそいう神殿に献げられてから売り出されました。また祝い事があるときはそういう神殿で宴が開かれました。コリント教会の強い人たちはそういう宴に喜んで出かけました。彼らの言い分はこうです。「神は聖書に記されている神だけだ。異教の神がたくさんいるようだが本当は存在しない。異教の神に献げた肉と言うがただの肉。異教の神殿もただの祝いの場所。だから肉を食べても、どこで食べても、問題なし」。日本の社会はコリントの町と似ています。伝統的宗教が生活の中に根付いています。私が育ったキリスト教界は、そういう生活に入り込んだ異教的なものを意識して排除する、戦うクリスチャンのイメージがあります。異端はさらに徹底的に意識して排除します。コリント教会の強い人たちや、日本の戦うクリスチャンや、ひょっとすると異端の異教を排除する考え方も正論かも知れません。しかしいずれにしても「私たちはほどよいことをしている」と言えるのか?振り子が振れるように極端から極端になっていないか?一面だけの正しさで、自分たちの行動を正当化しているだけではないか?

自由を強要しない

コリント教会の強い人たちによって弱められている人がいました。「そんなことして大丈夫なんですか?神様への信仰が汚されるんじゃないですか?」と不安になる人たちです。しかし強い人たちは「大丈夫!そんなことないから!」と、弱い人たちにそうするよう教えてもいたようです。そうなると弱い人たちは心が汚される思いで食事をし、自分はもうダメだと思うこともあったようです。強い人の知識を振りまわし、強い人の自由を弱い人に強要するなら弱い人に自由はありません。教会は神様から与えられた「自らの由(わけ)」を知るところ。そして互いの自らの由を尊重するところ。教会にある問題や強い面や弱い面を丁寧に認め、互いの知識を振りまわし自由を強要し合うのではなく、丁寧に結び合わせていく。そこに問題を乗り越えるアイデアが生まれてくるのです。

愛の配慮で建て上げる

日本の戦うクリスチャンは、かつてのコリント教会の弱い人たちが強くなった印象を受けます。「異教的なものを意識せず、排除もせず、戦いもしないなんて、信仰の弱い人だ」とかつて強かった人を責める目で見ていないか?日本にある伝統的宗教も聖書やキリスト教と全く関わりが無いかというと、そうではありません。日本のキリスト教は西回りでやってきたとよく言われますが、もっと前から東回りでやってきて、伝統的宗教の中に影響を与えています。キリストは伝統的宗教の中に生きる方々のためにも、ゆる〜いクリスチャンやどまじめなクリスチャンのためにも死なれました。私たちみんなを愛し、命を献げられました。それはお互いが責め合うためではなく、愛するようになるためです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」「愛は人を建て上げる」「愛は人を強める」。キリストの愛は私たちの知識を問題を乗り越えるアイデアとして結び合わせ、教会を建て上げ、お互いを強めるのです。

私たちはあの人この人のために、どんな形で愛をあらわせるでしょうか?世捨て人になるのでも、世に埋没するのでもなく、どんな形で愛を生きられるでしょうか?パウロは「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」と言います。「あなたがたは肉を食べるな」と言っているのではありません。パウロ自身がその人のために、どんな形で愛をあらわせるかを言いたかったのです。

5月7日(日)の礼拝は、創世記第14章1節〜24節から、「信仰生活の日常」と題してメッセージです。


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