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私たちは神の家族

100年ほど前、アン・ジャービスというクリスチャンが、南北戦争の負傷兵を敵味方関係なく助けようと奉仕しました。この女性の召天後、教会で記念会がもたれ、その娘がカーネーションを贈ったことが母の日の始まりです。後にアメリカの議会で5月第2日曜日が母の日となり、世界中に広まり今日に至っています。母の日に母に感謝すると共に、お互い家族にも感謝を!ということで、5月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙第2章11節〜22節から、「私たちは神の家族」と題してメッセージでした。

キリストの血によって近くなる

パウロはエペソ教会の人々がかつてどんな人たちだったかを記します。「異邦人」「無割礼の者」「キリストを知らない」「イスラエルの国籍がない」「いろいろの契約に縁がない」「希望もない」「神もない」。なんだかさんざんです。とにかく、かつての姿は神様から「遠く離れていた」ということです。しかしキリストの血が状況を一変させます。キリストが十字架で血を流し死なれたとき、ユダヤ教の神殿の幕が「上から」下まで真っ二つに裂けました。至聖所と聖所を分ける幕です。至聖所は年に一度、動物の犠牲の血を携えて大祭司が入れるだけでした。その幕が人手によらず取り除かれた。何を意味するか?大祭司だけではなくユダヤ人だけでもなくどんな人でも、キリストの血によって神様に近づけるようになった、ということです。家族とは血のつながりのある人たち。キリストの血が私の罪のためだったと信じ告白するなら、神様と私を遠く隔てていた私の罪が取り除かれて、神の家族とされるのです。

敵意という隔ての中垣を取り除かれる

「隔ての中垣」とは先の神殿におけるユダヤ人と異邦人を分ける物理的な壁。今、ユダヤ教の神殿も隔ての中垣もありません。しかし実際の壁を言うだけではありません。ユダヤ人は心が神様から遠く離れていました。彼らの隔ての中垣は数々の「規程」「戒め」「律法」。「ああしなければならない」「こうあるべきだ」「それをしてはならない」。そんなことばかりに執着し、キリストを神の子と認めず、十字架で殺してしまった。しかしそんなユダヤ人の罪のためにも、キリストは血を流して死なれました。十字架で手を広げ、ご自分の体を裂き、異邦人もユダヤ人も受け入れてくださるのです。「二つのものを一つにし」「二つのものをひとりの新しい人に造りかえて(創造して)平和をきたらせ」「二つのものを一つのからだとして神と和解させ」とは、十字架で手を広げ、体を裂いてくださったキリストの救いに飛び込んだ私たち、教会を表現しています。神の家族は神様と私が近くなるだけではなく、私たちお互いも近くされるのです。

神のすまいとして成長する

パウロは神の家族を「建物」から「聖なる宮」、「聖なる宮」から「神のすまいとなる」と記します。私たちが実際、屋根や柱や窓になるわけではありません。これは神の家族の交わり、教会の成熟を表現しています。神の家族の交わりとは何か?キリストが「隅のかしら石」(土台の土台)、「使徒たちや預言者たち」が土台だと言います。私たちはキリストの救いにあずかり、使徒たちや預言者たちが記した聖書の言葉を分かち合い成長する。それが神の家族の交わりの特徴・醍醐味です。もちろん何でも打ち明け合い、祈り合い、助け合う。まずはキリストにあって神様とお互いが近づけられ(建物)、神様とお互いが段々わかっていって一つになり(聖なる宮)、見えない神様をいよいよ鮮やかに表現する教会として成熟していく(神のすまいとなる)のです。

100年前、アン・ジャービスは南北戦争という敵意あふれる隔ての中垣を越えて奉仕しました。現代にも見える・見えない両方の隔ての中垣がたくさんあります。そんな中で神様は私たちを救い出し、神の家族とし、天授ヶ岡教会を創造されました。神様のみ前に共に礼拝できることを感謝します。救いの恵み、聖書の恵みを喜び楽しみ分かち合い、慰め励まし助け合い、身近にある隔ての中垣をじわーっと溶かして、神の家族の輪を広げてまいりましょう。

5月21日(日)の礼拝は、創世記第15章1節〜21節から、「神様への信頼が私のすべて」と題してメッセージです。


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