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信仰の足並み

アブラムが神様の召しを受けて歩み始めて10年。アブラムの物語も中盤にさしかかってきました。聖書はアブラムの妻サライにも焦点を当てます。創世記のはじめ、神様は結婚を通じて祝福が地に満ちるようにされました。ですからアブラムの信仰だけではなく、サライの信仰も重要でした。とうことで、5月28日(日)の礼拝は、創世記第16章1節〜16節から、「信仰の足並み」と題してメッセージでした。

当時の常識を提案するサライ

サライにはまだ子どもがありませんでした。大族長の妻として焦りやプライドがあったでしょう。彼女は一計を案じます。女奴隷ハガルをアブラムに妻として与え、アブラムとサライの跡取りをもうけること。代理母出産。当時の常識的な方法です。当時跡取りをもうけるにはいくつか方法がありました。アブラムも創世記第15章で奴隷の中から跡取りをと神様に話しています。アブラムも当時の常識で考え、行動しようとしましたが、サライもまた当時の常識で考え、行動しました。アブラムは何の抵抗もなくサライからハガルを受け取り、「彼女(ハガル)によって」子どもを得ました。しかし事はそう上手くいきません。ハガルがサライを見下げるようになったのです。サライはアブラムに言います。「わたしの受けた害はあなたの責任です」。かつて洪水前に人々が祝福ではなく「暴虐」を地に満たしました。「害」は「暴虐」と同じ言葉。アブラムの家庭にも暴虐。アブラムがサライからハガルを受け取る姿は、アダムがエバから禁断の実を受け取る姿に似ています。そしてサライの言葉は禁断の実を食べたアダムとエバが、責任をなすり合った姿に似ています。彼らは一体何に向いて聞いて従っているのでしょうか。祝福は神様から流れるもの。伴侶は神様が与えてくださるもの。二人は少なくともこの10年間、何を信じ、何を分かち合ってきたのでしょうか。会話のない夫婦のように思えてなりません。

信仰の足並みがそろうのを待つ主

アブラムはサライに、ハガルを好きにしていいと言い、サライはハガルを苦しめます。ハガルは耐えかねて逃げ出します。そしてある泉のほとりで主の使いに出会います。主の使いは女主人(サライ)のもとに帰るように言います。これだけなら怖くて帰れません。主の使いは彼女を祝福します。彼女に生まれる子はイシマエル。「神は聞かれる」という意味。ハガルは神様を「見ておられる神」と表現します。そして泉(後に井戸)は「見ていられるかたの後ろを拝めた」という彼女の言葉で呼ばれるようになりました。ハガルもアブラムの祝福の下にいました。しかし神様はハガルをも直接祝福したい。ハガルも神様に向いて聞いて従うとき直接祝福をいただける。祝福してくださる神様。いつも聞いて見ていてくださる神様。前を進んで導いてくださる神様。ハガルはこの神様とつながることでサライのもとへ帰り、仕えることができました。族長アブラムも、女主人サライも、女奴隷ハガルも、立場はどうであれ、それぞれが神様に向いて聞いて従わなければ祝福は流れません。暴虐がはびこります。まずは一人一人が神様に向いて聞いて従う。そして共に神様に向いて聞いて従う。さらにお互いも向き合い聞き合い従い合う。この三つの「向いて聞いて従う」があるとき、立場がありながらも立場を越えた麗しい関係と祝福が広がっていくのです。

ハガルの件があって13年間、神様の沈黙があります。雄弁は銀。沈黙は金。アブラムとサライが自分のやらかしたことを省み、自分中心から神様中心になる「とき」が必要でした。神様は一人一人を祝福したいと、丁寧に語りかけ、時に沈黙し、大切に取り扱い、信仰の足並みがそろうのを待ってくださいます。私たちも祝福を広げるために、焦らずじっくりと、神様と身近な人との三つの「向いて聞いて従う」を培ってまいりましょう。

6月4日(日)はペンテコステ礼拝。マルコによる福音書第1章1節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージです。


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