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バプテスマの恵み

私たちは母親から、水(羊水)と共に生まれました。それが誕生日。この世界に生まれた証し。しかしある人がこんなことを言いました。「一度しか生まれない者は二度死に、二度生まれる者は一度しか死なない」。キリストはこう言われます。「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」。二度目の誕生があるの?一度目は羊水と共にこの世界に生まれること。そして二度目は洗礼(水と霊)と共に神の子として生まれること。ということで6月4日(日)のペンテコステ礼拝は、マルコによる福音書第1章1節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージでした。

神の子としての誕生がある

バプテスマのヨハネが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ(洗礼)」を授けていました。罪とは的外れ。的は神様。悔改めは的を戻すこと。人々は続々と洗礼を受けました。そこへキリストが洗礼を受けに来られました。キリストも罪があったの?元々神の子であるキリストに罪はなし。キリストは罪赦されるだけではない「神の子として生まれるバプテスマ」を示されたのです。私たちはキリストと違って罪があります。この世界に生まれただけは、やがて体の死を迎え、さらに霊の死を迎えます。二度の死です。しかし悔改めてキリストを救い主と信じ洗礼を受けるなら、罪ゆるされるだけでなく、永遠の命をもつ神の子として生まれるのです。体の死はあってもそれ以上の死はない。あるのは復活。洗礼なくとも悔い改めてキリストを信じれば救われます。お腹の中の赤ちゃんのようなもの。しかし生まれてこそわかることがあるのです。

三位一体の神様との交わりがある

キリストは聖霊によってマリヤから生まれました。キリストは最初から神の子ですから聖霊をよくご存じでした。しかし洗礼の時、あらためて天から聖霊がはとのように下り、父なる神様から声かけがありました。それは何を意味するの?聖霊(「水と霊」の霊)は私たちにも、洗礼を受ける前から働きかけておられます。しかし私たちが洗礼を受けるなら、聖霊が下り、父なる神様の声かけがあって、あらためて三位一体の神様との交わりが始まるのです。赤ちゃんはお腹の中にいる時、声は聞こえても、誰の声か、どんな顔か、外にどんな世界があるか知ることはできません。生まれてこそわかることがある。一気に全て知ることはありません。段々見えるようになり、わかるようになる。赤ちゃんが両親との交わりによって両親の子供らしく育つように、私たちは三位一体の神様との交わりによって神の子らしく育っていくのです。

愛と恵みによる営みがある

父なる神様はキリストに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と声をかけられました。私たちも洗礼を受けるなら同じ声かけがある。「ええ!でも私みたいな者が?」と思えなくもありません。私にも子供がおりますが、生まれた時、誰一人、私に愛されるような、心にかなうような行為はできませんでした。しかし私は愛していましたし、彼らを見ているだけで満足でした。しかしそんな子供たちができるようになることは喜ばしいことです。食べる。歩く。走る。勉強する。技術を身につける。仕事をする…。しかしそれらのことを「義務や強制」と捉えると途端に不平が出てきます。しかし「できる恵み」だと捉えると喜びに変わります。神様は私たちがこの世界で生きるための必要を一切備えてくださいました。自然の恵み、両親の愛、家族の絆等々。しかし自然を破壊し、愛がわからなくなり、家族もバラバラになって、恵みが恵みでなくなっていないか?洗礼によって神の子として誕生し、三位一体の神様との交わりの中で、あらゆる的を戻していく。失われた恵みを回復していく。それが神の子の営み。この世界にいながら、神の国を体現していくのです。

洗礼という事実が神の子として神の国に生まれた確かな証し。いつもその原点に立ちつつ、神の子として養われ、再発見した恵みを分かち合ってまいりましょう。

6月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第9章1節〜27節から、「本当に自由な人」と題してメッセージです。

 


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