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神の栄光を現す教会

私は高校三年間で身長が25㎝伸び体重が15㎏増えました。その後も食べて運動して体重を増やしました。自分の体をコントロールして作り上げる。人よりも強くなる。それは大きな自己満足をもたらしました。そんな私を見たある方が聖書の言葉をくださいました。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」。今回の聖書箇所です。ということで、6月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第10章1節〜33節から、「神の栄光を現す教会」と題してメッセージでした。

歴史に学ぶ

パウロは9章で福音の道を自ら踏み外さないよう節制すると記しましたが、コリント教会にも道を踏み外さないよう、イスラエルの歴史を紹介します。モーセによってエジプトから救出されたものの、約束の地カナンに入れた第一世代はごくわずか、ほとんど第二世代に入れ替わっていたというお話し。「歴史に学ぶ」「古きを知り新しきを開く」、また「歴史は繰り返す」「同じ轍を踏む」という言葉があります。歴史に学んで同じ過ちを繰り返さないか?学ばず同じ過ちを繰り返すか?クリスチャンも同じです。キリストによって罪から救出され、約束の新天新地を目指す私たちですが、おりることもできる。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれの道も備えて下さるのである」。歴史は姿形を変えながら繰り返しているところがある。イスラエルが直面した問題にコリント教会が直面し、コリント教会が直面した問題に現代の教会も直面する。でも聖書の歴史に学ぶとき、私たちは問題を乗り越え、福音の道を進めるのです。

主を礼拝する

イスラエルが直面しコリント教会が直面した問題。それは偶像礼拝。異教の神殿での祝い事に招かれた時のことは8章に触れましたが、ここでは明らかな偶像礼拝について記します。偶像は何か本当にあるのものか?いやいない、とパウロ。コリント教会の「強い人たち」もそう思っていました。しかしパウロはそれは悪霊を礼拝するのだ、ともう一歩踏み込みます。悪霊は御使いと同じような霊的存在。人に無い力を持っていて、人はそれに魅力を感じます。しかし悪霊は人に与えるべき良いものは何も持っていません。悪霊を礼拝しその支配を赦すなら、何もかも奪われていきます。私たちは「主の杯」によって神の子・自由の子とされた。なのに「悪霊どもの杯」によってこの体を裂き離し、悪霊の奴隷になっていはいけない。じゃあ主を礼拝することは?主こそ私たちを創造し、神の子とし、必要の一切を与え、自由を教えて下さるお方。だから礼拝する。イスラエルの祖であるアブラハムたちは異教の民の中で生活しましたが、主を礼拝し続けました。それが彼らの証しとなりました。コリント教会も、現代の教会も同じ。主を礼拝し続けるのです。

人の益を求める

コリント教会の人がある人の家に招かれた時、出された食事が偶像に献げたものかいちいち気にせず食べるがよい、主が創造されたものだから、しかし誰かがあなたの信仰を気遣って「これはささげものの肉です」と言ってくれるなら食べないがよい、とパウロ。どっちやねん!パウロはここで白黒つけるマニュアルを提示していません。その時々の身の処し方を「賢明なあなたがた」は考えなさいと言っているのです。その判断基準は、その行為が周りの人の益になるか?徳を高めるか?です。私は高校を卒業後、福祉の学校に入り人命救助のスキルを学びました。自己満足のための肉体の鍛錬は、人を助けるための鍛錬に変わりました。大工仕事や農作業も覚えるようになりました。いくつかの震災復興支援でその経験を用いることができました。今までの仕事や日常生活にもそれは活かされています。自分や教会の営みを通して、人に益をもたらすなら結局の所、自らの益になる。その営みで人を建て上げるなら結局の所、自らの建て上げになる。その営みで人が喜ぶなら結局の所、自らの喜びとなる。その営みで人が救われるなら結局の所、自らの救いとなるのです。

私たちは何でもすることができます。自由です。しかし私たちは聖書の歴史に学び、主を礼拝し、何が多くの人の益となるか、喜びとなるか、救いとなるか、祝福となるか、という視点で営みを選び取っていくのです。それこそが自制の効いた、セルフコントロールされた自由人の営みではないでしょうか。そして結局の所、それが神の栄光を現す営みとなるのです。

6月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章1節〜16節から、「神の栄光を現すライフ・スタイル」と題してメッセージです。


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