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ゆるぎない契約

アブラムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし神様の祝福を信じて75歳で旅立ち、86歳でイシマエルをもうけるまでの歩みは?神様に向いて聞いて従ってグッと進んだかと思うと、自分たちの常識にとらわれて後戻りするような歩みでした。三歩前進二歩後退。しかしそれでもアブラムの信仰は少しずつ前進します。なぜなら神様がアブラムをあきらめず、見捨てず、祝福し続けられたからです。時に語り、時に沈黙し、導いておられたからです。そしてアブラムが99歳の時、神様は再び語りかけられます。ということで、7月2日(日)の礼拝は、創世記第17章1節〜27節から、「ゆるぎない契約」と題してメッセージでした。

繰り返すお言葉によって

神様はまず言われます。『わたしは全能の神である』。天地創造された神。不可能はない神。人間的なものに縛られない神。「あなたがたの常識ではなく、全能の神である私に向いて聞いて従いなさい」と言っておられるかのようです。次いで『あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』。全き者。ノアにも使われた言葉。完璧を意味しません。神様に向いて聞いて従う人。全能の神に向いて聞いて従うなら全き者になる。全能の神と全き者。神と神のかたちの響き合い。そのためにまず、神様から声をかけられます。第17章には『契約』という言葉が13回使われています。アブラムは三歩前進二歩後退するような者。しかし神様はそんなアブラムがさらに三歩前進できるよう、契約をゆるぎないものとするために、彼にもまして向き続け、繰り返し語り続けられるのです。

新しくされることによって

ここでアブラムはアブラハムに、サライはサラになります。アブラハムは「多くの国民の父」、サラは「王女」を意味するようです。「名は体を表す」と日本語でも言いますが、聖書の世界でも名前はその人を知る上で、その人を現す上で重要です。そして名前が変わるということは、その人に内的な、立場的な変化がもたらされることを意味します。自分で改名したのではありません。神様が改名されました。自分で自分を新しくしたり変えるよりも先に、まず神様がその人を新しくされるのです。神様が人を新しくされることで、その人も自らを新しく変えることができるのです。神様は繰り返すお言葉だけではなく、祝福を受ける者を新しくすることによって、契約をゆるぎないものとされるのです。

従うことによって

全能の神と全き者の響き合い。アブラハムの側の応答がここにあります。それが割礼です。当時割礼は、地域によっては成人の儀式として行われていました。しかしアブラハム一族にとってははじめてのこと。しかも成人の儀式ではなく、神様の祝福を受ける者としての『契約のしるし』でした。神様はサラから男の子が生まれると言われますが、アブラハムはひれ伏しながらも笑い、心の中で言いました。『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラは九十歳にもなって、どうして生むことができようか』。いくら『わたしは全能の神である』と言われても、何度祝福を約束されても、やっぱり疑ってしまう。しかしアブラハムは疑いながらも神様に従い、割礼を受けました。

信じながらも疑い、疑いながらも従う。これが私たちの現実ではないですか?かつての割礼も現代の洗礼も、神様の祝福を受ける者のしるしとして重要ですが、神様に向いて聞いて従い続けること以上に重要ではありません。しるしはそのための支え、励まし、恵み。それでも神様を疑い、受け入れきれず、目の前の現実に足を引っ張られることがある。しかし疑いは神様に従うことの妨げにはならない。疑いながらも「こうしてごらん」という神様の言葉に従うことは可能なのです。従うことによって疑いが晴れ渡り、受け入れられなかった祝福が現実となり、足を引っ張る現実は過去のものとなる。疑いの笑いは喜びの笑いに変わる。信じながらも疑い、疑いながらも従う。それは結局、信じて従うことに変わりはない。神様は疑うことを許容しておられるようです。私たちは疑いすらも神様に申し上げ、神様の救いと祝福の約束に目を向け、洗礼の恵みである神の子の立ち位置を確認し、今従うべきことに従ってまいりましょう。

7月9日(日)の礼拝は、創世記第18章1節〜33節から、「丁寧な神様」と題してメッセージです。


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