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霊の賜物でいたわり合う教会

スポーツの祭典などで見かけるマスゲーム。たくさんの人がグランドに大きな文字や絵を描いていきます。中には大きな人を描き出すものもあります。その描き出された人がまるで生きているかのように手や足を動かします。しかしそれらの動きはたくさんの人が、一つのイメージの元に息を合わせ、それぞれに割り振られた動きを忠実に行うことによって実現します。実は私たち教会の営みもこれと似ているのです。ということで、8月20日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章12節〜27節から、「霊の賜物でいたわり合う教会」と題してメッセージでした。

私たちはキリストのからだ

『あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である』とパウロ。私たちは一つ御霊(聖霊)によって『イエスは主である』と告白し、『皆一つの御霊を飲ん』でキリストのからだとされました。私たちは聖餐のパンとぶどう汁をいただくことでキリストの肉に与り、キリストの血が流れるのです。ユダヤ人やギリシヤ人などの人種や国や文化の違いを越えて、奴隷や自由人などの社会的身分や職業や境遇という違いを越えて一つ。しかしその違いを持ってキリストの大きさ豊かさを現す。現在30億人ほどのクリスチャンがいると言われます。30億人で一つキリストの大きさ豊かさを現すのです。1人でカバーできる範囲も、取り組める問題も、働ける時間も限られています。でも多ければ多いほどカバーできる範囲も、取り組める問題も、働ける時間も多くなる。24時間365日地球のどの地域のどんな問題においてもキリストのからだは活動することができるのです。

お互いは神の喜びの肢体

『神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられた』とパウロ。私たちのからだに不必要なものや無駄な配置はありません。また必要なものを取り込む口や不必要になったものを排泄する肛門といった正反対の働きをする器官もあります。しかしその正反対な機能がなければ体の健康は保てません。いくら正反対でも、それぞれに適切な役割、場所、時が備えられているのです。私たち教会も不必要な人や賜物、無駄な役割といったものはありません。また時に正反対な人や賜物もあるということです(30億人もいればなおさらでしょう)。しかしそれぞれに働く適切な役割、場所、時が備えられているのです。違うからと他を排斥していては機能不全に陥るだけです。『神は御旨のままに』とは「神は喜びを持って」と訳せます。私たちは皆、そして私たちの違いは、神様の喜びなのです。そんな私たちお互いも、その違いがキリストのどんな大きさ豊かさを表すのか、期待し受け入れ合うべきなのです。

いたわり合ってキリストを

『からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、…神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである』とパウロ。賜物にはいろいろありますが、共通の働きがあります。それが「いたわり合い」です。コリント教会に集う金持ちや奴隷はお互い示し合わせて教会を形成したのではありません。神様に召されたから集まることができました。それは分裂や格差を生むためではなく、あらゆる垣根を越えて、違うお互いが違う賜物を生かしていたわり合うことで、弱くとも必要なものがあり、見劣りするものにこそ素晴らしさがあることを体験するため。そして弱さや見劣りするものをいたわり合う全体にこそ豊かな調和があることを世に示すためなのです。

私たちのうちに弱いところ、傷んでいるところ、問題はありませんか?そこにお互いの賜物を用いていたわり合うなら調和が生まれ、健全さが養われ、外に向かっていたわり合いを広げることができます。教会が災害や戦争や病の中にあるのはそのためでもあります。悲惨や破壊や混沌の中に慰めと回復と調和を生み出すため。私たちの外に向かういたわり合いは、キリストが足を運び、キリストが手を伸ばすことと同じことなのです。

8月27日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章31節〜第13章13節から、「みんなの賜物。それは愛」と題してメッセージです。

 


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