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みんなの賜物。それは愛

愛という言葉を聞く時、多くの人が最高に価値あるもの、無くてはならないもの、永遠なものと思っておられるのではないでしょうか。しかしその現実はどうでしょうか。「好き」「奪うもの」「感情」だったり、特別な人へのものだったり、憎しみに変わったり、熱くなったり冷めたりするような心許ないものになっていないでしょうか。では聖書は何と語っているか?ということで8月27日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章31節〜第13章13節から、「みんなの賜物。それは愛」という題でメッセージでした。

この愛がなければ

コリント教会は問題だらけ。「コリント化する」と揶揄されるほど。神様に召され、キリストに救われ、聖霊によって様々な賜物が与えられているはずが、その全てを忘れてしまっているかのよう。そんな人々に『だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう』と、パウロは愛を語るのです。まず、「たといわたしが〜しても、愛がなければ」とどんな優れた行為も、愛がなければ意味がない、無に等しい、益にならない、と記します。「これだけ聖書を読んで、祈って、証しした。人々にもっと教えなければならない。強い信仰を持てばどんな問題も奇跡的な解決がある。他の人が信仰が持てるようにもっと示さなければならない。これだけ献金し、寄付し、あの人この人のために犠牲を払った。感謝されて当然だろう」。やっていることは間違っていないかも知れませんが、自己満足に見えないか?ノルマを果たしているだけに見えないか?人に押しつけているように見えないか?これは愛ではなく自己義認なのです。

この愛こそが残る

パウロは子どもと大人のたとえと鏡のたとえを用いて、『愛はいつまでも絶えることがない』『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛』と語ります。子どもは成長する中でパズルをピースで埋めるように知識や経験を得ていきます。大人はパズルの全体がある程度見えています。また当時の鏡は金属を磨いたもので時間が経つと酸化してくすんできます。自分を見る分にはおぼろげ。しかし互いが互いを見る分にはくっきりはっきりでした。パウロが第12章で語った様々な賜物は、今の世界(古い世界)で神様の奥義を知るために必要なもの。しかしやがて古い世界は過ぎ去り、新しい世界に生きる時、全てはっきりします。パズルをピースで埋めるための賜物は必要なくなるわけです。しかしその新しい世界へ私を持ち運ぶ必要な賜物がある。それが神様を信頼する信仰、新しい世界への希望、そしてそれを裏打ちしている神様の愛です。信仰や希望さえ神様の愛が必要。ですから他の賜物はなおさら神様の愛に裏打ちされる必要があるのです。

この愛は行う者が得る

パウロははじめ「わたしが〜しても」と語り、今度は「愛は〜である」と語ります。『愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』。愛をキリストや自分の名前に置き換えて読むとどうなる?ぴったり?違和感?パウロはコリント教会を断罪するためにこれを記したのではありません。自己チェックできて、誰もが行える愛を記しました。もう少しかみ砕くとこうです。「愛はとても気長、愛はとても親身。隣人の持ち物や能力をうらやまない。愛は自慢しない、大言壮語しない。自分の言動は丁寧に、隣人の言動には敬意を払い、自分の利益を主張しないで全体の利益を考え、隣人の言動に挑発されず、悪意を抱かない。隣人の不正を喜ばないで誠実を共に喜ぶ。隣人に忍耐強く向き合い、隣人への信頼を失わず、隣人の救いと祝服を期待し、隣人を応援し続ける」。一つ一つを見れば不可能なことはないのではないでしょうか。隣人が誰であろうと私の行動は変わらない。私がどんな人間であれ神様の愛が変わらないのと同じ。「愛は行動」と言われます。そして愛は行って得るものわかるものなのです。

どんな人にも示された神様の愛。どんな人にも与えられる神様の愛。どんな人にも行える神様の愛。それは美しく感動的な物語ではなく、地味でこつこつとした行動として記されました。しかしこの地味でこつこつとした行動がなければ、キリストの体を営み、キリストの愛を現すことはできないのです。

9月3日(日)の礼拝は、創世記第20章1節〜18節から、「失敗から学ぶ」と題してメッセージです。


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