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問題を乗り越える教会

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「教会」と聞いて、どんなイメージが思い浮かびますか?

白いチャペル?塔の上に十字架?鳴り響く鐘?白いガウンの聖歌隊?集う人々は清楚で手を合わせて祈っている?世俗にまみれた私は入ることができない?教会の中に世の中にあるような問題はあるはずがない?いやあってはならない?あったらそれは教会じゃない?いや教会も世の中も同じで、「愛だ」と説く牧師やクリスチャンも結局は偽善者だ?白か黒か、正しいか悪いか、清いか清くないか、両極端なイメージがないでしょうか?

聖書はなんと言っているでしょうか?

ということで、6月12日(日)は、コリント人への第一の手紙第1章10節〜17節から、「問題を乗り越える教会」と題してメッセージでした。

問題を認める教会

教会は教会堂(建物)ではなく、「神によって召された者」「イエス・キリストの御名を呼び求める者」「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召された者」の集まりであり営みです(どなたも神様に召され(招待され)ています。その招待に応じるならどなたもこの営みに加われるのです)。そのコリント教会には数々の問題がありました。パウロはその問題を順々に記していきます。その最初は分裂・分派の問題。しかもこの問題は「クロエの家の者たち」から伝えられました。そしてこの手紙はコリント教会だけではなく、広く回覧されました。二千年後のアジアの端、日本まで回覧されてきてるでしょ。キリスト教会の内部告発?告発者の名前も公開?こんなことではクリスチャンとして証しできない?宣教できない?いえいえ。この手紙は問題をあげつらうのではなく、問題を乗り越えるためにあります。この手紙はそのための、古今東西すべての教会の共有財産。世の中にはあまたの問題があります。その問題の中に生きている私たちが教会を営むのです。だから問題がある。問題がなくなってから教会になるのではないのです。問題があるのに無いふりをしない。当たらず障らず放置しない。臭いものにふたをしてきれいになったつもりにならない。教会の営みは問題を謙虚に認めるところから始まる。問題を認め、向き合い、乗り越える経験をした教会にこそ本物の証しがある。宣教の力がある。世の中の問題に奉仕できる教会となるのです。

イエス・キリストのものである教会

コリント教会の人々は、イエス様と有名な教師たちを同列に並べて、「私はパウロにつく!」「私はアポロのものだ!」「私はケパだもんね!」とお互い教師自慢し、自分が正しくなったつもり、偉くなったつもり、特別になったつもりでいました。「○○牧師の教会」なんて言い方しませんか?でもこれは世の中の多くの営みにも見られる問題です。コリント教会の人々はそんな世の中の見方でイエス様やパウロたちを見ていました。しかしパウロは「そうじゃない!君たちが今あるのは、イエス様の十字架ゆえだ!私を遣わされたのもイエス様だ!」と語ります。私たちを救い、整えられるのはイエス様。イエス様につくパウロにつく私ではなく、イエス様につくアポロにつく私でもない。みなイエス様につく私。そのお互いが心も思いも一つにする。「堅く結び合って」一つになる。「堅く結び合う」とはカタルシス(浄化する、昇華する)という言葉が元になっています。バラバラなものを訓練や修行を通して繕っていく、直していく、一つにしていく、という言葉。一朝一夕にはならない言葉です。イエス様によって救われた「聖徒」は立場的には一つです。そして問題を認め、向き合い、労力と時間を惜しまず共に乗り越える中で、イエス様の心や思いが見えてくる。わかってくる。共有できる。立場だけの一致にとどまらない、世の中の波風にもびくともしない、本当に一致した教会となるのです。

ある意味、教会の営みの醍醐味は、問題を乗り越えるプロセスにあると言えます。続いてコリント人への第一の手紙に耳を傾けてまいりましょう。

6月19日(日)は、コリント人への第一の手紙第1章18節〜25節から、「問題を乗り越える力」と題してメッセージです。


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