カテゴリー

慰めの手紙

パウロは問題だらけのコリント教会へ第一の手紙をテモテに託し派遣。その後パウロもコリント教会を訪問。問題は全て解決したか?いいえ。逆にパウロとの関係がこじれた。パウロはエペソに戻り「涙の手紙」をテトスに託し派遣。パウロはトロアスからマケドニヤに渡った所でテトスと再会。コリント教会の様子を聞きこの第二の手紙を記します。第一の手紙はコリント教会の問題を主に記し、第二の手紙はパウロ自身のことを主に記します。使徒パウロそのものが疑われていたからです。「教会も所詮人間の集まり。ドロドロ。何が信仰、何が神だ。何も変わらない」と思われます?パウロは第二の手紙の最初に何を記す?ということで、5月27日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第1章1節〜11節から、「慰めの手紙」と題してメッセージでした。

慰める神

手紙の書き出しは『神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロ』。第一の手紙の書き出しとほぼ同じ。パウロが勝手に使徒になったのではなく神様が使徒に召された。そしてその神様についてまず記します。『患難』『苦難』という言葉が何度も出てきますが、それにもまして『慰め』という言葉が出てきます。パウロは「神を信じれば患難苦難には遭わない」とは言いません。もし患難苦難を経験しないなら、「信仰が足りない!祈りが足りない!だからそんなことが起こるんだ!」と、上から目線の愛のない人になりはしないか?患難苦難はある。それを経験するからこそ慰めがわかる。わかるからこそ慰めることができる。『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである』。神様こそ慰めを知るお方。人類の罪のために御子キリストを失う苦難をなめられたから。でも人類の救いのためによみがえられた御子のゆえに慰めを味わわれた。御子のよみがえりのみならず人類を救いうるよみがえりゆえの二重の慰め。だから。神様はその救いを持って、どんな人をも慰めることができるのです。

救い出す神

『死』という言葉も何度も出てきますが、それにもまして『救い』という言葉が何度も出てきます。パウロは「神を信じれば死ぬことはない」とは言いません。死はある。私たちは弱い。いつも死と隣り合わせ。そして日々何かしら、小さな死を体験している。パウロも同じ。『神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる』。死に瀕する患難苦難を何度も味わってきた。しかしそれにまさる救いを得て今日まで来た。そしてこれからもそうだ。さらに死を越えるよみがえりにまで至らせて下さる!神様は御子キリストを十字架の苦難を通してよみがえらせたお方。人類を救いうるよみがえり。だから神様はどんな苦難にある人をも必ず慰め、必ず救い出すことができるのです。パウロはなぜ、手紙の最初に、慰め救い出す神様を記すのか?それは、この神様を信じる者は、たとえどんな問題にぶつかっても乗り越えられる、どんなに関係がこじれても修復できる、共に慰めを得て感謝できる、そういうお互いのはずだ!と言いたかったから、なのです。

関係がこじれればリセットして済ませていないか?問題は解決したと思っていないか?しかしそれは問題放置。成長もない。問題を乗り越えることが教会の力となる。関係の修復や回復こそが教会の成長につながる。神様は私たちの苦難を通して慰めることができる。私たちの弱さを通して救いを賜ることができる。教会が「神の教会」たる所以は、この神様に向いて聞いて従う所にある。この神様に信頼し、向かってくる問題やこじれる関係に諦めず向き合い、乗り越え、共に感謝し、慰めを分かち合う教会であらせていただきましょう。

6月3日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第1章12節〜24節から、「真実な手紙」と題してメッセージです。

訪問聖餐式がありました

5月20日(日)のペンテコステ礼拝で聖餐式が行われました。そして午後、役員と有志の兄弟姉妹と共に、老人ホームで生活している姉妹や高齢のため礼拝に出席できない兄姉を訪問し、交わりの時を持ち(可能であれば聖餐の恵みを分かち合い)ました。

 

バプテスマの恵み

4月から、第三週礼拝でマルコによる福音書を味わい始めています。そして5月20日(日)は聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝でした。聖霊様が私たちの元に来て下さって以来、たくさんの恵みがありますが、バプテスマの恵みもその一つ。ということで、マルコによる福音書第1章9節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージでした。

イエス様がどうしてバプテスマを受けるのか?

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』に、バプテスマのヨハネが現れ、罪の悔い改めのバプテスマを宣べ伝え、人々を主の道に戻し、主の道をまっすぐにする役目を果たします。人々は自分の罪を自覚し、神様に的を戻す表明として『罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ』を受けました。そしてイエス様もバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。なんで?イエス様にも罪があったん?いえ。イエス様は罪のゆるしだけではない、新しい意味を身をもって示されたのです。

・神の子としての成長が始まる

『そして、水の中から上がられると』。この『上がられる』という言葉は「成長する」という意味もある言葉が使われています。バプテスマによって、神の子としての成長が始まるのです。

・天と地がつながる

『すぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった』。当時『天』は神様のおられる所で人間は行けない所、と理解されていました。しかしその天が裂けて、聖霊様が地上におられるイエス様に向かって下ってこられた。バプテスマによって、聖霊様によって、天(神)と地(人)がつながるのです。

・愛の宣言をいただく

『すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」』。イエス様は地上におられ、聖霊様は天と地をつないでおられます。では天からの声は?父なる神様です。バプテスマによって、「お前は私の子だ!愛しているよ!」との父なる神様の声をいただけるのです。

イエス様は元々神の子。罪はない。三位一体の交わりも持っておられました。しかし、バプテスマを受けられることで、新しい意味を、愛の恵みを示して下さったのです。

私たちも神の子とされるバプテスマを受ける

私は今まで、いろんな方のバプテスマに立ち会いました。またバプテスマを受けない理由もいろいろ聞かせていただきました。家の宗教や地域や職場の問題。自分の罪深さや学びの浅さ、心の準備ができていないこと。また死の間際にでも受けられれば、というようなことも。人間の側にいろいろ理由はありますが、神様の側ではそれらは問題ではありません。バプテスマは最初に記されています。イエス様は他の福音書で『だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』と言われました。私たちは羊水と共にこの世界に生まれます。事前に勉強して生まれてくるわけではありません。何も身につけていません。生まれるからこそ、「生まれてくれてありがとう」「かわいいね」「愛しているよ」という交わりが始まる。交わりの中で成長がある。バプテスマも同じ。バプテスマは第二の誕生です。水だけではなく聖霊様によって神の子として生まれる。父なる神様(天)、聖霊様(天と地)、神の子イエス様(地上にいる私の側)にまっすぐつながる。神の家族の交わりが始まる。神の子としての成長が始まる。今までがどうであろうとバプテスマから全てが始まるのです。

私たちが罪を自覚し、自力で罪を償い、全うに生きようとしても、そう簡単ではありません。水だけのバプテスマなら罪を拭うことが精一杯。何度も禊ぎが必要でしょう。バプテスマのヨハネはその限界を感じたからこそイエス様を示しました。『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』。イエス様のバプテスマ、聖霊によるバプテスマは、天を裂いて降り注ぐ神の力!私たちを取り囲む神の愛!神の子として成長させる神の交わり!の始まりです。ペンテコステは、私たちのバプテスマが、イエス様のバプテスマと同じ意味のあるものとして下さった日。この恵みに感謝しましょう。

5月27日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第1章1節〜11節から、「慰めの手紙」と題してメッセージです。

本当の家族愛はどこに

今日は母の日。しかし家族のあり方が複雑化する今の時代、片親に感謝を表す、というよりも、今ある家族に感謝する、という教会も少なくありません。また教会は神の家族。今ある神の家族お互いにも感謝したいと思います。とは言え。いずれにしても感謝することに抵抗を感じる人はいませんか?感謝するようなことは何もしてもらっていない。逆にひどいことをされた。そんな相手がいないか?そんな場合どうすればいいのか?今日はイエス様の言葉から、本当の家族愛はどこにあるのか(愛とは何か?ではなく、どこにあるのか?)を知りたいと思います。ということで、5月13日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第10章34節〜40節、第12章46節〜50節から、「本当の家族愛はどこに」という題でメッセージでした。

今は家族がわからなくなっている時代

第10章34節〜40節は理解しがたいことが記されています。イエス様は何てひどい方なんだと思えてしまいます。どんな犠牲を払ってでもイエス様を一番に愛さなければならない、ととれなくもありません。しかしイエス様はひどい社会になることを望んでおられるのでも、家族を犠牲にせよと言っておられるのでもありません。クリスチャンが家族から迫害を受ける時代が来ることを言われました。宗教的な違いや政治体制によって、また伝統的な慣習によって、クリスチャンが国や社会や家族から迫害される。意外かもしれませんが、今世界で最も迫害されているのはクリスチャンです。今のところ日本に宗教的迫害はありません。しかし、イエス様が言っておられるような状況が、クリスチャンでなくても、日本の家庭に姿を現しているのではないでしょうか。39節〜40節のイエス様の言葉を噛み砕いて言うならこうです。「目先の命を得ていると思う者は結局それを失う。しかし目先の命を一旦手放して私に学び直す者は本当の命を得る。私に学ぶあなた方を認める家族は私を信じたことになる。私を信じた者は命の源である父なる神を信じたのだ」。命を愛に置き換えます。「目先の愛を得ていると思う者は結局それを失う。しかし目先の愛を一旦手放して私に学び直す者は本当の愛を得る。私に学ぶあなた方を認める家族は私を信じたことになる。私を信じた者は愛の源である父なる神を信じたのだ」。迫害を恐れてイエス様を信じない?今の世の中、誰彼なしに同じようなことをしています。だからこそ、なおさら、私たちはイエス様を信じるべきです。そして家族愛を知って家族を回復するために、まず自分が神の家族とされ、イエス様に学び始めることが必要なのです。

神の家族とされることから始める

第12章46節〜50節にはイエス様の家族(マリヤたち)が登場します。イエス様はこう言われます。『わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか。…ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』。マリヤたちに何だかつれない?いえ。マリヤたちはもちろん、赤の他人さえ、『父のみこころを行う者はだれでも』イエス様の家族とされるのです。今、様々な依存症が言われます。しかし「〇〇依存」とはっきりしなくとも、家庭や学校や職場の人間関係に依存的な問題が潜んでいます。ハラスメントやいじめや虐待も、依存的な関係性の問題と見ることもできます。意外にも強い立場が弱い立場に依存している。この根本原因は何か?本当に依存すべき、健全で安心な相手を見失っているからです。その代わりを求めている。でも依存の仕方も相手も間違っている。だから満足できない。問題の解決を見ないのです。依存すべき根本的な存在は父なる神様です。そして父なる神様と私のパイプ役が御子イエス様です。どうやって神の家族になるか?イエス様を自分の救い主と信じてバプテスマを受けること。それが『父のみこころを行う』初めです。バプテスマは第二の誕生です。生まれるのに生まれる側にあれこれ条件はありません。『だれでも』です。私たちはつい「あの人はどうなのか」「誰も私に何もしてくれない」と他人に意識が行きがちです。しかし問題の解決も愛の行為も、他の誰でもない、自分から始まるのです。今までの自分を取り巻くあらゆる関係を一旦手放し、バプテスマによって仕切り直し、本当に依存すべき父なる神の家族とされ、御子イエス様に学び直し、学んだことを行動していくのです。

家族は最初から家族なのではありません。家族になっていくのです。イエス様は罪の泥沼でもがき苦しむ私たちを何とか救い出し、自分の家族にしようと身を挺して十字架の愛を差し出されました。父なる神様もその十字架にすがる人はだれでも引き上げて、自分の懐に迎え入れて下さるのです。この神の親子に本当の家族愛があるのです。

5月20日(日)はペンテコステ礼拝。マルコによる福音書第1章9節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージです。

主のわざに励む諸教会

天授ヶ岡教会が所属する日本イエス・キリスト教団では近年、協力教会制度を導入しました。戦後日本の成長に歩調を合わせるように宣教と教会成長に取り組んできましたが、今様々な課題に直面しています。価値観が多様化し、問題が複雑化する現代、一つの教会だけではやっていけない、教会同士、様々な面で協力していきましょう、ということで協力教会制度が始まりました。しかし教会が協力し合うことは何も新しいことではありません。コリント人への第一の手紙にその様子が記されています。ということで、5月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第16章1節〜24節から、「主のわざに励む諸教会」と題してメッセージでした。

経済的な支え合い

パウロは『だから、愛する兄弟たちよ。固く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい』と語った後、エルサレム教会への献金を要請します。『主のわざ』とは神様の命と支配と愛を喜んで楽しんで分かち合うことです。その具体的な行為の一つが献金でした。最初の教会。エルサレム教会。しかしユダヤ教社会ゆえに迫害と貧しさの中にありました。パウロは伝道旅行で生み出してきた諸教会に呼びかけ、「日曜日毎にこのことのために献金を蓄えなさい。手紙を添えて持って行きなさい。なんなら私も一緒に行くから」と、エルサレム教会に敬意を払う丁寧な態度で支えようとしました。その姿は昔も今も変わらない。私たちも諸教会の実情を知り、時と必要に応じ、自らできる献げもので支え合う。できる時は喜んで献げ、できない時は感謝して受ける。献げる側、受ける側、どちらも敬意を忘れない。教会の大小を問わず、そこに優劣や上下はないのです。

教師たちによる支え合い

パウロはコリント教会へテモテを遣わそうとしていました。テモテはパウロの第二回・第三回伝道旅行に同行し、パウロの指示で諸教会を巡っています。またアポロが登場します。パウロが最初のコリント宣教を終え、エペソ経由でエルサレムに帰った時、アポロはエペソからコリントに来ました。そしてパウロが再びエペソにやって来た時(この手紙を書いている時)、アポロもエペソに戻って来ました。「アポロ、コリント教会で問題があるらしいな。これからテモテを派遣しようと思うが、一緒に行ってくれないか?」「いや、別に予定がある。コリント教会の問題については引き継ぎをして行くよ」というようなやりとりがあったことを、10節〜12節はうかがわせます。とにかく。パウロも諸教会を巡って指導しました。テモテ、アポロ、パウロ、はたまた他の使徒もみんなキャラや働きが違います。その姿は昔も今も変わらない。一人の教師が一つの教会にずっといるのが「当たり前」ではなく、様々な賜物を持った様々な教師が、諸教会の実情を知り、どんな助けが必要か相談しながら、横断的に支え合うことが「当たり前」なのです。

兄弟(姉妹)たちによる支え合い

パウロはテモテがコリントからエペソに戻って来る時、『兄弟たちと一緒に来るのを』待っていました。アポロにも『兄弟たちと一緒に』コリントへ行くよう勧めています。またステパナ、ポルトナト、アカイコという人々が登場します。ステパナは『アカヤの初穂』、コリント教会の第一号。ポルトナトの素性はわかりません。アカイコは名前から奴隷だったのではないかと言われます。この三人がコリント教会から、パウロへの質問状を持って来て、コリント教会の問題を相談したと考えられます。パウロはこういう人たち(社会的身分に関係なく)こそ重んじるべきだと記します。とにかく。無名有名にかかわらず、様々な教会の様々な兄弟たちが諸教会を行き来していました。その姿は昔も今も変わらない。一つの教会では行き詰まってしまうことがある。そんな時、より多くの兄弟姉妹の視点・知恵・経験を分かち合うことで、問題の糸口や解決が、慰めや励ましが与えられるのです。

諸教会による支え合い

『アジヤの諸教会から…よろしく』『アクラとプリスカとその教会から…よろしく』『全ての兄弟たちからよろしく』とパウロ。教会は会堂ではなく人です。ここにアクラとプリスカという夫婦が登場します。彼らはローマでクリスチャンになり、コリントに来た時、パウロに出会います。パウロがエペソ経由でエルサレムに帰る時、夫婦はエペソまで同行し、しばらくそこにとどまります。そこへ先のアポロがやって来て雄弁に説教しますが、夫婦は彼がバプテスマのヨハネしか知らないことを知り、懇ろに『神の道を解き聞かせ』ました。彼がコリントに渡る時、夫婦は励まし、紹介状まで添えて送り出してくれました。この夫婦はさながら移動する教会。しかし彼らは、行った先々に「アクラ&プリスカ教会」を生み出し、他の諸教会を夫婦流に染め上げたのではありません(パウロが「パウロ教会」を生み出したのではないのと同じ。教会は主の教会)。諸教会に仕えたのです。彼らは信徒でしたが教師ほどの力量がありました。しかし偉ぶることなく、教師に敬意を払って養い、心尽くして励ましました。教師も信徒も、どんな地方のどんなサイズの教会も、行き来しながら、敬意を払って分かち合い、仕え合い、支え合っていたのです。

だから教会協力は新しいことではありません。教会の本質的で自然な営み。それを難しくさせるものがあるとすればプライドです。自分の弱さや問題を認めない。どんな助けが必要か考えない。助けを求めない。逆の立場では、相手の必要に聞こうとしない。仕えようとしない。自分たちの成功体験を押しつける。というようなことではないでしょうか。13節〜14節と20節〜21節のパウロの言葉を、この手紙全体を振り返りつつ、噛み砕いて言うならこうです。「自分の弱さや問題に目をさまし、信仰に立って雄々しく取り組みなさい。助け合って強められるのです。相手を馬鹿にしたり、支配したりするのではなく、愛をもって仕え合うのです」。「主が来られるその日まで、親愛の情をもって主にお仕えするように、お互いもまた親愛の情をもって仕え合うのです」。

5月13日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第10章34節〜40節、第12章46節〜50節から、「本当の家族愛はどこに」と題してメッセージです。

祝福の傍流

かつてアダムとエバの長男カインは次男アベルを殺し、エデンの東に移り住みました。カインは神様に向かず聞かず従わない道を選んでいきました。そして恐れがいつもついまといました。自分の力で生き延びなければなりませんでした。だから町を建てた。文化文明が起こった。強力なリーダーが起こった。神様の御名を呼び求めるようになったアダムとエバの三男セツの子孫よりも抜きん出ていましたが、洪水によって滅びました。しかしセツの子孫ノアは新しい世界へ神様の祝福を持ち運びました。ヤコブの長男カインの子孫と次男ヤコブの子孫もこれと似た所があります。ということで、4月29日(日)の礼拝は、創世記第36章1節〜43節から、「祝福の傍流」と題してメッセージでした。

民の数が増える

エサウの系図(歴史)が記されます。最初にエサウの三人の妻の名前が記されます。創世記第26章と第28章に出てくる三人の妻の名前と、第36章で出てくるそれとはみな名前が違います。別人か?聖書が適当なことを記しているのか?というとそうではありません。当時一人に名前が二つあることはよくあることでした。名前の前に付された民族や親の名前も、当時の民族が広範に行き来し、複数の民族と関係を持っていたことを表しています。これらのことから言えることは、エサウとその子孫が、広範な地域において、様々な民族と結婚し、エドム(赤い)の民として、セイル(毛深い)の民として増えていったということです。神様は父祖アブラハムに彼の子孫が増えることを約束されました。神様はエサウを通してもその約束をある程度、実現しておられるのです。

土地を得る

かつてヤコブがカナンに戻った時、『セイルの山地、エドムの野に住む兄エサウのもと』に使いをやりました。しかし第36章では、お互い同じ地域に住んでいて、財産が増えすぎて一緒に住むことができなくなったので、エサウが東に移っていったように記します。これも聖書が適当なことを記しているのではなく、すでにエサウは広範な地域にわたって生活していて、拠点を徐々に東へ移したということです。ここで興味深いのは、かつてアブラハムと親戚のロトの財産が増えすぎて一緒に住むことができなくなり、ロトが東に移っていったことです。エサウの子孫は、ロトの子孫であるアンモン人とモアブ人の住む南側に土地を得るのです。神様は父祖アブラハムに広範な土地の所有も約束されました。神様はエサウを通してもその約束の一角を、実現しておられるのです。

王たちが出る

エサウの子孫からは、ヤコブの子孫よりも一足早く王が出ました。エサウは父祖アブラハムの祝福の中にあって、ある程度その実現を見ました。しかしエサウとその子孫は、カインの子孫のように神様に向かず聞かず従わない道を選んでいきます。自分の力で生き延びなければならない。だから神に代わる王が出た。神頼みではなく人頼み。神様は王を否定してはおられません。後に神様はイスラエルに、神様に向いて聞いて従うしもべとしての王を求められます(神様に向いて聞いて従う士師や預言者も国をリードしました)。しかし神様に向かず聞かず従わないなら、かつての「へび」に似た、偽りをもって何もかも奪い取る独裁的な王となっていく。エドムはやがて、キリストに敵対する、祝福を阻止しようとする、ヘロデ王を生み出すこととなるのです。

自ら祝福の本流を外れるなら、傍流となり枯れていく。今、神様抜きの知恵や力や美しさがもてはやされ、それらを兼ね備えた人や国を世はこぞって賞賛しています。しかしそういうものが無くても、父祖アブラハムたちのような弱さがあっても、何番目に生まれようとも、神様に向いて聞いて従うなら祝福の本流にあるのです。『エドム人の先祖はエサウ』どまり。しかしキリストを信じ、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』の祝福にある者は『神にいたる』(ルカ3:38)。それは遡るだけではなく、将来においてもそうなのです。

5月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第16章1節〜24節から、「主のわざに励む諸教会」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved