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霊の賜物で建て上げる教会

かつて「愛の配慮で建て上げる教会」という話しをしました。パウロは『徳を高める』(建て上げる)という言葉を使いました。また「霊の賜物を持ち寄る教会」という話しをしました。それぞれに与えられた違う賜物を持ち寄りいたわり合うことが教会の営みでした。そして様々な賜物を意味あるものとして活かすために、みんなが求めるべき賜物がある、それが愛だ、という話をしました。愛の配慮で建て上げる教会は、賜物で建て上げる教会、賜物で建て上げる教会は愛で建て上げる教会。そしてパウロは再び『徳を高める』という言葉を使って、コリント教会の賜物についての問題を記します。ということで、10月1日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章1節〜25節から、「霊の賜物で建て上げる教会」と題してメッセージでした。

建て上げるために

コリント教会の今回の問題、それは異言の賜物についてでした。異言には二種類あります。突然外国語が話せるようになって、その外国語を理解する人々に福音を語ること。使徒行伝に記された福音宣教最初のしるし。現在ではレアな賜物。宣教師は現地の言葉を時間をかけて学んで宣教に出かけています。もう一つは地上の言語ではない音声を発すること。これは現在もあります。コリント教会の異言問題は後者。パウロは異言を否定しません。誰よりも異言を語れることを感謝しています。しかしそれよりも預言することを熱心に求めるよう促します。預言とは(予言も時に含まれますが)神様からの言葉を預かって、人々に向かって語り、慰め、励まし、いたわって、徳を高めるためのもの。福音宣教最初のしるしである異言は「教会を建て始める」ためのもの。そして預言は「教会を建て上げ続ける」ための賜物なのです。

理解するために

パウロはコリント教会の異言を次のようにたとえています。『また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか』。前の章でパウロは『たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである』と語っていますが、どこか似ています。パウロは第12章で賜物や賜物を持つ人々を列記しますが、いずれも預言を前の方に異言は後ろの方に記しています。要するに神の奥義、キリストの福音、聖書の真理は、人に向かって意味が明らかにされて理解されてなんぼだ、ということなのです。

分かち合うために

パウロは異言を自分で解くことができるように、また誰かが解けるようにしなさいと語ります。解くことができれば、自分にも周りの人にも明らかにされ理解され伝わるからです。異言で祈っていて、お互いが理解して共有できるものがあるか。自分だけで完結していないか。異言で祈れない人が傍観者になっていないか。『しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい』。パウロは霊と知性(理性)の両方が大切だと語ります。霊で語ると共に理性で語る。異言の方が預言よりも霊的なのではありません。どの賜物も霊的です。またどの賜物も理性を持って活かし、神の奥義、キリストの福音、聖書の真理が理解され、分かち合う必要があるのです。

救われるために

パウロは『初心者の席にいる者』『未信者』『不信者』にも配慮します。当時の教会に特別席があったかはわかりません。クリスチャンの家を開放して、日常的に集まり共に食事をし礼拝していました。そこへクリスチャンでない同僚や友人を連れて来ていました。そこでみんなが異言で語っていたらどんな風に目にうつるか?びっくりしないか?拒絶反応が起こりはしないか?預言ならその言葉がすっと入ってこないか?理解され、心響いて、神様を認めるに至らないか?預言−神様の言葉を預かって語る−は、牧師の説教に限りません。親や子に、妻や夫に、同僚や友人に、神様の言葉を語るのはあなた。お祝いの席で神様の祝福を、お見舞いで神様の励ましを、お悔やみで神様の慰めを語るのはあなた。教会は日曜日の礼拝だけに集まる教会堂ではありません。神の奥義と現実の世界を結ぶ交わり。キリストの救いと祝福を日常生活の中で具体的に分かち合う交わり。預言はそれを橋渡しするためのもの。私にもあなたにも神様から預けられた言葉、証しの言葉があるはずです。

10月8日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章26節〜40節から、「秩序を大切にする教会」と題してメッセージです。

 


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