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秩序を大切にする教会

日本人は行列に忍耐強く並びます。割り込みません。一緒に頑張って並んでいるという連帯感すら生まれます。また譲り合い精神もあります。以前バスの中で大きなキャリーバッグを持った老婦人に席を譲ろうとすると「座ると立てなくなる。このバッグで安定しているから、どうぞ座っていて下さい」と逆に席を譲られました。順番を守る。割り込まない。譲り合う。それは互いを大切に思う気持ちあってこそ、ではないでしょうか。しかしコリント教会では…ということで、10月8日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章26節〜40節から、「秩序を大切にする教会」と題してメッセージでした。

順番を守る

パウロは霊の賜物、特に預言と異言について、用い方のルールを示しました。当時の礼拝は言わば家庭集会。今風の司会者、説教者、プログラムがあったわけではありません。内容的には賛美、教え、啓示、異言がありました。教えや啓示は預言と言い換えられます。礼拝の要素としては今とあまり変わりません。そして異言も預言も二、三人が順番に語り、かつ異言は解く必要があり、預言は吟味する必要がありました。異言は解けなければ家で個人的に語るようにとパウロ。そして『預言者の霊は預言者に服従する』と。教会は自己主張したり、誰かが会話を独占したり、誰かを口撃したり、誰かが語っているのに我も我もと語り出す場ではありません。一人が語るならみんなで傾聴する。語る人は慰め励ましいたわり合うことに配慮し、時間や人数に考慮し、次の人へバトンを渡す。そういう理性を働かせた吟味が必要なのです。

割り込まない

『婦人たちは教会では黙っていなければならない』とパウロ。またも女性に対する差別的な意見?パウロは礼拝で女性が預言や祈ることを禁じていません(11章)。この婦人たちはコリント教会の特定の人たちだったようで、預言の流れを中断し話の腰を折るような批判や議論を割り込ませていたようです。集まりが神様を礼拝し神様からいただいた恵みを分かち合う場ではなく、議論の場になっていました。パウロはなぜルールを示すのか。それは互いを大切にし守るため。互いを信頼し尊敬し愛し合うため。本当に信頼する友人なら、あなたは友人の話に共感をもって傾聴し、真摯に労いや感想を述べ、そこで語られた個人情報は他言せず、互いをより解放し、信頼を深めるているはずです(意識せずともルールを守っている)。教会はそういう関係を、教会に集うどんな人とも、ゼロから培う場なのです。

聖書に譲る

コリント教会は今まで様々な主張をしてきました。そして礼拝で異言を語って何が悪い!批判や議論をして何が悪い!と自由の拳を振り上げていました。しかし混乱が起こり無秩序に陥っていました。学級崩壊ならぬ礼拝崩壊?自由とは「みずからのわけ」を知ってそのわけに従うことです。自分の「ぶん」をわきまえ、それを果たす人こそ自由な人です。また相手の持ち場立場も大切にし、出しゃばらず、割り込まず、ルールに沿うことができます。聖書はその「みずからのわけ」「ぶん」「ルール」を教えます。時代遅れや時代からずれた古い堅い書物ではありません。全時代全地域を見渡した神様の霊によって記された聖書です。その言葉に丁寧に傾聴するなら、自由を主張し混乱する今の時代にこそ必要なメッセージが伝わってきます。私たちが互いに語ること以上に、聖書が語ることに傾聴し従うなら、強制された堅苦しい秩序ではなく、本当の自由から来る柔らかな秩序、キリストのからだとしての調和、キリストの営みとしての平和が生み出されるのです。

私たちの交わりは教会堂の中とは限りません。どこででも楽しんで下さい。そんな時今回のルールを思い出して分かち合って下さい。慣れてくれば信頼と尊敬と愛が培われています。互いの交わりがそこまで成長すれば、教会がしっかり建て上げられていることになるのです。

10月15日(日)はバーベキュー礼拝。ヨハネによる福音書第6章35節から、「わたしが命のパンである」と題してメッセージです。


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