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共にある神にまさるものなし

メーテルリンクの「青い鳥」は、幸せとは何かを問いかけます。意外にも身近にあるものだと教えてくれます。私たちは幸せという言葉から様々なことをイメージし、求めているのではないでしょうか。そして祝福という言葉もまた似ているのではないでしょうか。人それぞれにイメージすることが、求めるものが違うように思えます。祝福とは?祝福はどこにある?ということで、11月12日(日)の礼拝は、創世記第26章1節〜35節から、「共にある神にまさるものなし」と題してメッセージでした。

共におられ守られる神様

『アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った』。祝福の基アブラハムの祝福の子、イサクの物語です。『初めのききん』とはアブラハムが故郷を離れ、カナンの地に来た時、最初に見舞われたききんのこと。アブラハムはエジプトに下り、「私の妹は実は妻」事件を起こし追い出されました。神様はイサクにエジプトに下ってはならい、あなたがこの地にとどまるなら祝福すると、約束されました。そこでイサクはゲラルに住みました。ここはアブラハムが二度目のききんの時、身を寄せたアビメレクが治める土地でした。ここでもアブラハムは「私の妹は実は妻」事件を起こしましたが、イサクもまた妻リベカを妹だと言います。お父ちゃんと同じ!でもアブラハムの時に痛い目に遭ったアビメレクは違いました。イサクの嘘を見抜き、正し、イサクに保護を与えたのです。

何事も祝福に変えられる神様

『イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ』。アビメレクは土地を自由に使わせたようです。イサクが余りにも富み栄えるので、地元住民はねたみ、アビメレクは治安と互いの利益を守るために、イサクに退去を願います。イサクはゲラルの谷に移動。谷だから水があるとは限りません。イサクは井戸を掘ります。すると地元住民が所有権を主張。そこでイサクは別の井戸を掘る。また地元住民が所有権を主張。またイサクは別の井戸を掘る…。豊作でも、財産が増えても、みんなのために井戸を掘っても、ねたまれ、問題が起こり、悩みが尽きない。しかし神様は言われます。『あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう』。

祝福にまさって見える神様

イサクの元にアビメレクたちがやってきてこう言います。『われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。…まことにあなたは主に祝福されたかたです』。イサクは少々感情的に食ってかかります。無理もない。労苦と忍耐の連続ですから。しかしイサクの営みをずっと見ていたアビメレクたちは、神様がイサクと共におられることがわかったのです。共におられる神様にこそ祝福がある、とわかったのです。イサクの収穫や財産だけを見てそう言うのではありません。イサクの弱さや労苦の中にも変わりなくおられる神様と、その祝福を見たのです。今回、神様の言葉はあっても、直接の介入は記されていません。では神様は何もしておられないのか?私たちは神様を映し出す神のかたち。祝福は神のかたちの営みを通して神様の命とご支配と愛を地に広げていくこと。神のかたちの営みを通して神様は働かれるのです。アビメレクのイサクへの保護や自由の付与も、イサクの労苦による収穫や井戸掘りも、神様の祝福の現れなのです。

共にある神にまさるものなし。神様あっての祝福。神様に向いて聞いて従う私たちの日常生活が祝福の営み。そこには労苦や忍耐があります。人間的な弱さや問題もあります。だからといって祝福は色あせない。逆に弱さや問題があればあるほど、神様の臨在と祝福は際立つのです。神様に信頼しつつ、日々の出来事に丁寧に向き合ってまいりましょう。

11月19日(日)の礼拝は、創世記第27章1節〜第28章9節から、「祝福を私物にする家族」と題してメッセージです。


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