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祝福を私物にする家族

祝福はアブラハムからイサク、さらにエサウとヤコブへ引き継がれようとしていました。しかしエサウとヤコブ誕生の時、二人はリベカのお腹の中で押し合いしました。生まれてからは、鹿肉を獲ってきてくれるエサウをイサクは愛し、天幕にいて料理もするヤコブをリベカは愛しました。さらにエサウは長子の特権を、腹がへったからと言って、ヤコブが作った赤いレンズ豆の煮物と交換しました。どことなくギクシャクしている家族。祝福の焦点がぼやけている家族。大丈夫か?ということで、11月19日(日)の礼拝は、創世記第27章1節〜第28章9節から、「祝福を私物にする家族」と題してメッセージでした。

祝福を人から騙し奪う人

イサクは晩年になりエサウを祝福しようとします。鹿を狩り料理し持ってくるように言います。それを聞いたリベカは、子ヤギの料理をヤコブに持たせ、子ヤギの皮とエサウの晴れ着をまとわせ、祝福を奪いに行かせます。ヤコブはばれると呪いを受けると心配しますが、リベカは呪いは自分が受けると言います。イサクは目が見えなくなっていたので触って確かめます。声はヤコブと思いつつもエサウの祝福を与えてしまいます。その後、エサウが帰って料理を持ってきますが、イサクは震えわななき、祝福とも呪いともつかない言葉を発するだけ。祝福とは騙し奪ったり、誰かを不幸に陥れたり、自分が呪いを受けて誰かに渡すような、そんな小さなものではありません。神様は偏愛されるお方でもありません。エサウを祝福しヤコブも祝福できるお方。神様はそれぞれに違う個性を与え、尊重し、ふさわしい祝福を用意しておられます。ですから私たちがまずすべきは、自分に用意された祝福を、神様に求めることなのです。

祝福を人から求める人

エサウはヤコブに騙され、長子の特権の件も合わせて怒り倍増。エサウは激しく泣き叫びイサクに祝福を求めますが、イサクはもはや祝福を与えることはできませんでした。エサウはいつも目先のことばかり。人ばかり。長子の特権の件もそう。生涯保証である長子の特権を一時の空腹を満たす食べ物にかえました。エサウの妻たちもそう。目の前の気に入った女性を妻にし、両親を悩ませているとわかり、ヤコブがリベカの故郷に妻をめとりに行くと聞いて、親戚のイシマエル一族から妻を迎えます。エサウはイサクが好きでした。イサクに認めてもらいたかった。そしてイサクもエサウが好きでした。いや、エサウが獲ってくる鹿肉が好きだった。しかし祝福は、人間的な考えや好みで得られるものではないのです。また簡単に交換できるものではないのです。神様あっての長子の特権、神様あっての結婚、神様あっての祝福なのです。ですから私たちがまずすべきは、自分に用意された祝福を、神様に求めることなのです。

祝福の神に目を向ける人

リベカは潜在的な家庭内不和を顕在化させ悪化させました。しかし彼女は、それを子どもたちの結婚問題にすり替えます。ずる賢いリベカ。ヤコブはリベカ似?エサウからヤコブを守るため、ヤコブをリベカの故郷へ妻をめとりに行かせるようイサクに進言します。このことは図らずも、この夫婦を祝福の原点に引き戻しました。『全能の神が、あなたを祝福し、多くの子を得させ、かつふえさせて、多くの国民とし、またアブラハムの祝福をあなたと子孫とに与えて、神がアブラハムに授けられたあなたの寄留の地を継がせてくださるように』。『全能の神が』『神が』と戻るべき焦点がはっきりしました。イサクとリベカは、ヤコブをリベカの故郷へ送り出した、というよりも神様の前へ送り出した、と言えるのです。親が子の祝福を願うのは当然かも知れません。しかし子は親の私物ではありません。子もまた神様の前に、独立した、ユニークで、尊厳ある存在。ですから親が子の祝福を願うなら、親も子も、それぞれが神様に、それぞれの祝福を求めるべきなのです。祝福は分かち合えるほど豊かに与えられます。奪うのではなく分かち合う。私物にするのではなく共有していく。そうすることによってアブラハムから始まった神様の祝福は、私たちの内を流れ、外へ広がり、周りを豊かにしていくのです。

11月26日(日)の礼拝は、創世記第28章10〜22節から、「神の家に住まう者へ」と題してメッセージです。

 


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