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インマヌエルを信じて

待降節はキリストの来臨(初臨と再臨)に思いを馳せる季節。どんな状況の中でも、神様の言葉に信頼し、キリストの来臨を求めつつ歩む。それが私たちの待ち望むべき「気をつけて、静かにし、恐れない」態度でした。イザヤ書はこのキリストを「一つのしるし」「インマヌエル」と記しています。私たちが求めるべきインマヌエルとはどのようなお方か?ということで12月10日(日)の待降節第二週礼拝は、「インマヌエルを信じて」という題でメッセージでした。

見た目に寄らず共にいて下さるお方

『それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた』。インマヌエルは、おとめから生まれるひとり息子の赤ちゃんだと言うことです。時の王アハズにとって、そんな奇跡的な誕生をする(つまりありえない)赤ちゃんを待ち、たとえ生まれても育つのをのんきに待つ暇はない!と思ったかもしれません。なぜなら北イスラエルとスリヤの脅威が迫っていたからです。アハズや当時の人々が求めたのは、即答してくれて即戦力になる強大な王や国でした。しかし神様は目先の危機や心配事を無視されているわけではありません。目先のことも将来のことも含め、永遠までも私たちを導くことのできる、一国や一時代にとどまらない、みんながイメージする王とは全然違う、みんなのためのインマヌエルを与えて下さるのです。

状況に寄らず共にいて下さるお方

『その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである』『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った』。預言通り北イスラエルとスリヤはアッスリヤに滅ぼされます。しかし南ユダも例外ではありません。目先の危機を目先の強大なアッスリヤで凌いでも、結局滅びを招くのです。これらの地は異邦人に蹂躙されます。人々にとって、現れては消えていく王や国はもはや何の当てにもなりません。人々の心を絶望と暗黒が覆いました。インマヌエルは、土地や人の心が荒廃した時代に育ち、凝乳と野蜜で飢えを凌ぐ貧しさを共に経験するのです。つまりどんな状況の中にも、たとえ私たちが招く荒廃や暗黒の中にも共に寄り添い、希望を与え善を持って導くインマヌエルなのです。

この世の力に寄らず共にいて下さるお方

『まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる』。『霊妙なる議士』とは「驚嘆すべき助言者」、『大能の神』は「実行力のある神」と言うことです。アハズたちは目先の力がありそうなものに頼りました。どこかの王や国だけではなく、巫女や魔術師にも頼りました。しかし彼らも助けにはなりませんでした。確かに彼らも驚嘆すべきことを言い当てます。しかし彼らは自らの言葉に責任を果たすでしょうか?言いっ放しほったらかしではないでしょうか。彼らもまた時代の波、世界の波に飲み込まれていきます。しかしインマヌエルは、驚嘆すべきことを言うだけではなく確実に実行されるお方です。アハズを始め私たちに向けられた神様の言葉をことごとく果たし、私たちの誕生から永遠まで責任を持って導いて下さるお父さんのようなお方です。時代の波、世界の波を越えて、この争いの絶えない世界を終わらせて真の平和をもたらすインマヌエルなのです。

見た目に寄らず、状況に寄らず、この世の力に寄らず共にいて下さるインマヌエル。それはキリスト。しかし時のユダヤ人指導者たちもローマ帝国を打ち倒す強大な王を求めキリストを十字架につけました。私たちもまた強大で華やかで富み栄える人や国を求めていませんか?しかし強い人や国は目まぐるしく変わります。私たちは歴史に何を学んでいるのでしょう?煌びやかさは増しているかもしれませんが、闇もまた増している。この流れを変えるのはただ一つ。一つのしるし、インマヌエル、キリスト。憎しみと刑罰の十字架を罪の赦しの十字架に変え、死の体を復活の体に変え、滅びの闇を御国の光に変えられました。身をもって私たちの救いをデモンストレーションされました。このキリストを「私の」救い主と信じて従う。そうすれば庭先や家の中ではなく私の内に共にいて下さる。小さくとも確かな平和が「私から」始まる。そして『そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる』という最終的な約束を果たすため再臨されるキリストと大合流するのです。『万軍の主の熱心がこれをなされる』のを楽しみにいたしましょう。

12月17日(日)は待降節第三週礼拝。ルカによる福音書第1章5節〜38節から、「神に懸ける少女」と題してメッセージです。


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