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地の塩、世の光

1月14日(日)の礼拝は、天授ヶ岡教会誕生と建て上げのため労されたドロシー・エレン・ホーア先生と福田八重先生の記念礼拝でした。お二人は1920年代は東京で、1930年代は大阪で働きをなされ、戦後は京都で働きを始められ、天授ヶ岡の地に教会が誕生しました。デモクラシー、戦争、敗戦、民主化、復興と社会がどんなに変化しようと変わらずに福音を伝え続け、主のため人のために奉仕されました。その姿はマタイによる福音書第5章13節〜16節にある「地の塩、世の光」そのものです。有名な「山上の説教」です。キリストは群衆を背景に弟子たちに「あなたがたは…」と語り始められます。キリストに救われ従うのは当時の弟子たちだけではなく、ホーア先生や八重先生、私たちも同じ。「あなたがたは…」という語りかけに私たちも耳を傾けましょう。

あなたがたは地の塩である

「あなたがたは地の塩になれ」「あなたがたは地の塩になるだろう」ではなく、『あなたがたは地の塩である』。すでに塩。塩は防腐効果があり、少量で料理の味を引き立てます。しかし当時の塩は今ほど純度が高くはなく、塩気の無いものもありました。私たち教会もこの塩と同じ働きがある。何に対してか?地に対して。それはこの世界、社会、人々。私たちは食物に限らず「腐敗」という言葉を様々な分野で使います。一つ腐敗が見つかれば芋づる式に腐敗が発覚します。それは他人事ではなく、私たち一人一人の内に腐敗があるからではないでしょうか?私たち教会も腐敗の中にあって塩気を失っていくのか?いいえ!キリストに救われ従う者は、地の塩として腐敗を止め、それらのものが元々持っていた良い味を回復させ引き立たせるのです。

あなたがたは世の光である

「あなたがたは世の光になれ」「あなたがたは世の光になるだろう」ではなく、『あなたがたは世の光である』。すでに光。その光は『山の上にある町』にたとえられます。丘陵地帯のガリラヤ地方の町々。大きくありません。でも太陽に照らされると輝いて見えました。また家の中のあかりにもたとえられます。小さなあかり。当時の夜なら家の中を照らすには十分。光は反射させることで、また闇に輝くことで、目印になったり周りを明るくします。私たち教会も同じ働きがある。何に対してか?世に対して。地と同じ。私たちは夜に限らず「闇」という言葉を様々な分野で使います。腐敗もあれば闇もある。それも他人事ではなく、私たち一人一人の内に闇があるからではないでしょうか?私たち教会はその闇に圧倒され闇に埋もれていくのか?いいえ!キリストに救われ従う者は、キリストの光を内にいただいて、世に対して輝かし、人々を光源であるキリストへ導くのです。

あなたがたは御言に従うのです

『人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい』。『よいおこない』が塩の効き目、あかりの輝き。キリストはこの後、山上の説教が終わるまで、御言に従うことの大切さを語られます。つまり「御言に従いなさい。それこそが『よいおこない』だ」ということ。御言に従うことがキリストに従うこと。御言を行い伝え教える。信仰の先輩たちもどんな中にあってもこの一事に徹しました。塩は少量で効果がある。光も闇の中なら十分明るい。日本のクリスチャンや教会は決して多くない。でも逆に目立つ。私がクリスチャンだ牧師だと自己紹介するととても珍しがられいろいろ質問されます。「内田さんはクリスチャン」とその方々が宣伝してくれます。ある方は「私が礼拝に出かけると家族や近所の人が馬鹿にする」と言われました。でもその人が忠実に礼拝に通う姿は間違いなく周囲の方々の心に焼き付いている。どんなことがあっても行くべき所、礼拝すべきお方、聞いて従うべき御言がある。その方は行動でその事を立派に証ししているのです。

『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です』『曲った邪悪な時代のただ中にあって、…あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている』。信仰の先輩たちのようにはできなくても、御言に照らされて、御言を堅く持って小さな一歩を踏み出しましょう。その小さな一歩の積み重ねが闇広がる時代をもぶれることなく貫くのです。神様はどんな小さな一歩をも星の輝きのように喜んで捉えて下さり、御国の望外な喜びへと導いて下さいます。

1月21日(日)の礼拝は、創世記第29章1節〜第30章24節から、「祝福に関する思い違い」と題してメッセージです。


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