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祝福に関する思い違い

創世記はヤコブの物語となってきました。父イサクの物語は神様の祝福で始まり、イサクのお嫁さん探しの美しい物語がありました。ヤコブの物語も神様の祝福があり、ヤコブのお嫁さんになるラケル(リベカの兄ラバンの娘)との出会いがあります。しかしヤコブの押しのける者としての姿が表れます。ヤコブは母リベカの郷里にやってきました。そこに井戸があり、羊飼いたちが羊に水を飲ませるために集まっていました。そこへラケルが羊を連れて来ると知ると、その土地のルールを無視して羊飼いたちを追い返そうとし、ラケルの羊に真っ先に水を飲ませました。美しい出会いも色あせます。今日はヤコブの物語から私たちにもありがちな祝福に関する思い違いに気づきたいと思います。ということで、1月21日(日)の礼拝は、創世記第29章1節〜第30章24節から、「祝福に関する思い違い」と題してメッセージでした。

祝福は報酬ではない

ヤコブはラバンの元に身を寄せて働きます。ラバンはヤコブに「親戚だからとただ働きすることもない。報酬は何を望む?」と聞くと、ヤコブは7年分の報酬としてラケルを望みます。日本には結納がありますが、当時、かの地でも花嫁料をお金や物で払ったり、花嫁の家の手伝いをしたりしました。しかしそれは花嫁を送り出す家や花嫁が新しい生活のための必要に充てるもの。花嫁を買うためではありません。しかし私たちにもこんなことがないか?相手の年収を見て幸せが手に入ると思ったり、結婚は無理だと思ったり。結婚に限らずお金次第・努力次第で何でも手に入ると思ったり。お金も努力も大事です。しかし神様にある命と支配と愛という祝福はお金や努力では得られない。恵み。まず神様の祝福がある。そして仕事や結婚、その他様々な営みがあるのです。

祝福は欺くものではない

ラケルにはレアという姉がいました。レアは『目が弱かった(別訳では『優しい目』)』。ヤコブはラケルと結婚したつもり。でも一夜明けてびっくり。そこにいたのはレアでした。ヤコブはラバンに『どうしてわたしを欺いたのですか』とまるで自分は正しい者であるかのように激怒します。ラバンは姉を差し置いて妹が先に結婚する慣習はこの地にはないと、もう7年間働くことを条件にラケルをも嫁がせました。ドロドロしてる?私たちにもこんなことがないか?孫や子どもや伴侶を装った詐欺。本物の伴侶や家族が関係をこじらせば、少しでも自分が有利になるような訴え合い。間違いを正したり問題を解決するために訴えることは大事です。しかし祝福は欺いたり訴えることでは得られない。かつてヤコブは兄エサウと目の見えない父イサクを欺きました。今度は目の弱いレアをもって伯父ラバンに欺かれた。これは神様が仕組まれたことではありません。人間の余計な仕業です。

祝福は競争ではない

結婚したら今度は子作り競争です。レアは続けて子どもを生みます。その子どもたちの名前にはレアの神様への信仰が垣間見えます。しかしラケルはなかなか子どもが与えられません。そこでつかえめによって子を得ます。代理母戦争!またレアの息子が野で妊娠効果があるとされた薬草を見つけますが、ラケルはレアにヤコブとの一夜を提供する代わりにそれを要求します。ラケルの言動やその子どもたちの名前からは異常なまでの競争心があふれています。しかし子どもは競争して「作る」ものでも、取引して得るものでもありません。また祝福は神を味方につけた!と勝ち誇ることでもありません。私たちにもこんなことがないか?競争社会。競争して勝つことを祝福とする。他より多くを獲得することを祝福とする。必勝祈願!と神を自分の味方にしようとする。神を祝福の手段にしていない?

それでも神様は一人一人を、それぞれにふさわしく祝福したい。そしてヤコブに目の向けどころの間違いを気づかせようとされている。ヤコブは激しく子どもを要求するラケルに怒って言いました。『あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代わることができようか』。自分の力で何とか祝福を得ようと執念を燃やすヤコブですが、ちらっと祝福の神様が見えてきました。でもまだその力は抜けません。とうことで、1月28日(日)の礼拝は、創世記第30章25節〜第31章55節から、『神を利用しようとする心』と題してメッセージです。


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