カテゴリー

神を利用しようとする心

数年前、教団の牧師研修会の講演で、講師がこう言われました。「言葉で聖書を語っていても、そのように生きていないならば、聖書を否定することになります。それは異端的とも言えるのです」。聖書の言葉を語る牧師たちにとっては心探られる、重い語りかけでした。前回、私たちが祝福を得るための手段だと思っていることが実はそうではない、ということを見ました。さらに私たちは、祝福を獲るために神をも利用しようとすることさえあるのです(神様は利用されるような方ではありませんが)。ということで、1月28日(日)の礼拝は、創世記第30章25節〜第31章55節から、「神を利用しようとする心」と題してメッセージでした。

自分のしたいようにする

ヤコブはレアとラケルのために14年、さらに6年ラバンのもとで働きました。ラバンはヤコブに言います。『わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました』。かつてペリシテ人アビメレクがアブラハムやイサクに言った言葉を思い出します。『あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる』『われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ました』。ラバンの場合、ヤコブに「神を見る」ほどではなかったにせよ、神の恵みを感じていました。ラバンは感謝の気持ちを表そうとしましたが、ヤコブは「報酬は要らない」と明言します。しかし当時価値の低かった様々な模様の入った羊ややぎを自分のものに、価値のあるものをラバンのものに、と提案。そしてラバンの目の届かない所で、俗信めいた交配を行い、より強い羊ややぎを自分のものとして増やし、ラバンのものを貧相なものに変えました。神様の祝福は後ろの方に。ヤコブの略奪行為が前面に。

自分のしたことを正当化する

神様はヤコブに『あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう』と言われます。しかしヤコブが妻たちに話す中での神様の言葉は随分と印象が違います。ヤコブの羊ややぎへの意図的な操作が、まるで神様がなさったような口ぶりになり、羊ややぎの件はまるでラバンから言い出したような口ぶりになり、自分はいかに正しく誠実であったか、ラバンがいかに欺いたか、そしていかに神様が味方して下さったか、主張するのです。しかし妻たちはヤコブとラバンのやりとりも、ヤコブの行動も実際には見ていないはず。妻は外に出ないから。事実を知らない人に、自分の欺きを隠して、他人の欺きだけを言う。自分のやりたいようにして、神の導きだとする。自分の本音を隠して、神の御心だとする。ヤコブの欺きは後ろの方に。神様を前に出して隠れている。

自分の賛同者をつくる

今まで競争相手だったレアとラケルは、ラバンという共通の敵ゆえに一致しました。私たちにもこんな事ない?しかし実際は、ヤコブがラバンに彼女たちを報酬として要求したことが始まりです。しかし悪いのはみんなお父さん!となっている。ラケルはラバンの大切なテラピム(その土地の宗教神)を盗み出しました。欺く者の賛同者もまた欺く者となる。神への賛同者ではなく、ヤコブへの賛同者。そしてヤコブ一家は逃げ出します。神の前にも人の前にも真実なら逃げる必要なんてない。ラバンを大いに祝福し堂々と故郷に帰る方法はいくらでもあったはず。ラバンの息子たちはこう言います。『ヤコブはわれわれの父のものをことごとく奪い、父のものによってあのすべての富を獲たのだ』。アブラハムやイサクには弱さや愚かさがあった。そして苦労もあった。でもその苦労は、神様の言葉に従って祝福を広げる苦労だった。だから周りの人は彼らに神を見た。ヤコブには弱さよりも強烈な「我の力」があった。その力で他人から祝福を奪う苦労はあった。口では神様を前面に出すがヤコブばかりが傍若無人。いや傍若無神。だから彼を見る者は怒りを覚えたのです。

それでも神様はヤコブを祝福しようとされます。なぜこんなヤコブをさっさと罰しないのか?見捨てないのか?神様のヤコブへの態度は私たちへの態度でもある。あわれみでもある。私たちも御言葉を掲げながら、神に従っている!と豪語しながら、ヤコブと同じ過ちを犯すものだから。神様はそんなヤコブや私たちを「異端的だ!」とすぐに切り捨てないで、機会を捉えて気づきを与え、祝福された者にふさわしい姿へ変えようと、忍耐深く導いて下さるのです。果たして私が神様を利用しようとしているのでしょうか?それとも神様が私を用いて下さるのでしょうか?

2月4日(日)の礼拝は、創世記第32章1節〜21節から、「変わり始めるヤコブ」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved