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ヤコブのもう一つの歴史。ユダ

信仰継承。家の宗教としてキリスト教に関わる以上に、子や孫が自らキリストを信じて歩むにはどうすればいいか?その課題は昔も今も変わりありません。最初の人アダムは洪水のしばらく前まで生きていました。洪水前の人はアダムから直接教訓を聞いたはず。しかし洪水から救われたのはノアの家族だけ。ノアの子セムは600歳生きました。それはアブラハム、イサク、ヤクブの代に及びます。洪水後の人はセムから生々しく教訓を聞いたはず。でも神様と歩み始めたのはアブラハムだけ。アブラハムの孫のエサウは信仰の歴史から消え、ヤコブも最初は我の力で祝福を追い求めました。ヤコブの子どもたちも悪い噂が絶えませんでした。しかし聖書はヤコブの四男ユダに焦点を当てます。ヨセフの物語と共にヤコブの物語として語られます。なぜか?ということで7月8日(日)の礼拝は、創世記第38章1節〜30節から、「ヤコブのもう一つの歴史。ユダ」と題してメッセージでした。

背を向けるユダ

ユダはヨセフを売り飛ばした頃、カナン人の所に出かけカナンの女性をめとります。そして三人の男の子が生まれました。長男エルは「立ち上がる」、次男オナンは「強い」など、ユダのキャラクターが垣間見えます。ユダは祖父イサクとリベカの結婚物語や、伯父エサウがカナンの女性と結婚して祖父母の心を痛めたことや、父ヤコブとレアやラケルの結婚物語を聞いたはず。しかしユダは祖父や父に背を向けるような行動をします。私の祖母も私の両親も熱心なクリスチャンです。小さな頃から信仰を教えられていました。神様はおられ信じるに値することは理解していました。しかしそれ以外の世界に心引かれたのも事実です。なぜならそれ以外の世界の方が圧倒的だったから。ユダはあえて祖父や父、そして神様にも背を向けてみたかったのかも知れません。

無責任なユダ

ユダは長男の妻にタマルを迎えました。しかし長男は悪かったので神様は『彼を殺され』ました。そこで次男がタマルを妻として迎えますが、次男も悪かったので神様は『彼も殺され』ました。神様はひどい?祝福とはまず、神様にある結婚と親子関係を通して広がるもの。しかし人は祝福ではなく暴虐(破滅)を満たし、自ら死(滅び)を招きました。死がなければ世界は生き地獄と化す。私たちがひどい。しかし神様は死と復活の救いを用意して下さった。それを忘れてはいけない。とにかく。三男まで殺されてはかなわんとユダはタマルを寡婦のままにしておきました。当時、長男が跡取りを残さず死ねば次男が長男の妻をめとり、長男の跡取りをもうけねばなりませんでした。次男がだめなら三男が引き継ぎました。しかしユダはその責任を果たさない。ユダの妻も死にます。続く死に悲しみ暮れたはず。「どうしてこんなことが」と自分を振り返ることもできたはず。しかし遊女に扮したタマルを買い、欲望のままに生きました。

自分を棚に上げるユダ

寡婦のタマルが妊娠したと知ったユダは『焼いてしまえ』と激怒。タマルは冷静に懸命に相手の証拠の品を提示し、ユダは動かぬ証拠によって自分の非を認めます。でも自分にはお咎めなし。今回のユダにいい所なし。今週の金言は?と言われても困ります。なぜユダ?ヨセフとは対照的。後にヨセフはエジプトのつかさになり、ヤコブ一家を救い、エジプトの最上のものを与えます。後にユダは家族の危機を通してヨセフの前に立つことになります。どちらもヤコブの子。かたや神様のような立ち位置で神様の代理者のような存在。かたやドロドロの世界を平気な顔して渡り歩く存在。これはキリストと罪人である私たちの出会いを物語っている。どちらも神様によって生み出された。だから神様にえこひいきはない。私がクリスチャンホームかそうでないか、第何子か、どんな民族か、どんな生まれ育ちか関係なく、私は私で選び、救い、祝福したい。神様に背を向け、人の痛みを知らず、自由を振りかざして欲望に生き、そのくせ責任を果たさず、そんな自分を棚に上げて他人をさばく、どうしようもない私。神様はそんな私をキリストの元へ導こうとして下さるのです。

ユダとタマルの子孫からダビデ王が、そしてキリストが誕生します。ユダには「賛美」という意味があります。ユダは神様を賛美する一族、王を輩出する一族と変えられるのです。私たちも永遠の滅びという危機から救い出して下さった神様を賛美しながら、与えられた救いと祝福を喜び楽しんで分かち合ってまいりましょう。

7月15日(日)はカフェスタイル礼拝。マルコによる福音書第1章14節〜15節から「悔い改めて福音を信ぜよ」と題してメッセージです。


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