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新しい契約に仕える者

コリント教会に様々な問題が起こっても、パウロが批判されても、よそから来た自称教師がその批判に油注いでも、パウロはとことんコリント教会に向き合い、慰めを語り、真実を現し、愛を勧め、あなたがたこそ私が使徒であることの推薦状だと絶大な信頼を表明します。そしてついにコリント教会が変わり始めました。その変化こそ「キリストの手紙」としての醍醐味でした。以上が今までのダイジェスト。パウロはしばらく、その変化をもたらす働き人としての務めを記します。ということで、8月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第3章4節〜18節から、「新しい契約に仕える者」と題してメッセージでした。

キリストに仕えて義を宣言する

『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす』。『力』は「資格」を意味する言葉。『霊』はキリストです。新しい契約に仕える資格を与えられたパウロ。キリストに仕えるパウロ。では新しい契約とは?古い契約もあるのか?古い契約は石の板に刻まれた十戒をはじめとする律法です。「あれをしてはならない。したら罪である」「これをしてはならない。したら死ななければならない」というような文字による禁止事項があり、破ると断罪です。これが『文字は人を殺し』です。新しい契約は『墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心に書かれた』とあります。何が書かれたか?神の言であるキリストです。このキリストに罪の赦しと永遠の命がある。そのキリストを私の救い主と信じる時、私の内に罪の赦しと永遠の命であるキリストが刻まれる。罪ではなく義が、死ではなく命があふれる!『霊(キリスト)は人を生かす』のです。『もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣言する務は、はるかに栄光に満ちたものである』。罪を明らかにすることは大切です。そのために古い契約は今もって大切です。しかし罪を宣告してばかりでは、宣告する側もされる側も、あまり喜ばしくありません。しかし義を宣言することは、宣言する側もされる側も、大変喜ばしい。パウロはキリストに仕えて、その喜ばしい務めにあずかったのです。

キリストに向けさせて栄光に至らせる

『今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる』。古い契約に仕えたのはモーセ。モーセはイスラエルの民を代表して神様と度々会見しました。すると神様の栄光でモーセの顔も輝き、人々は恐れました。モーセは輝きがなくなるまで顔に覆いをかけました。人々は神様の栄光を恐れ、輝きを失ったモーセの顔に安心し、罪を禁止されても犯し続けました。神様よりも人。栄光よりも闇。義よりも罪。命よりも死。それが「おおいが心にかかった状態」です。新しい契約に仕えるのはパウロ。パウロは人々をキリストに向けさせようと務めました。罪ではなく義を、死ではなく命をもたらし、神様の栄光を輝かすのはキリストだから。私たちは古い契約の創世記から神様に向いて聞いて従うことを学んできました。新しい契約ではキリストに向いて聞いて従うのです。いずれも同じこと。すると神様にある全てがキリストを通して私に流れ込む。それが「おおいが取り除かれた状態」です。『主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく』。私たちは向く対象によって映し出すものが変わります。私たちは神様を映し出すべく「神のかたち」として創造され、キリストと同じ「神の子」とされました。ですから当然、キリストに向くべきなのです。そこに私たちの「自らの由(わけ)」がある。素晴らしい「神のかたち」「神の子」のわけを知って、喜びと輝きを増していくのです。

パウロはキリストに仕えて、人々をキリストへ向かせました。自分だけが義とされて栄光に向かうのではなく、人々に義を宣言し、共に栄光を目指しました。それはパウロや牧師だけの務めではありません。私たちはパウロと同じ神のかたち。同じ神の子。同じ主が共におられます。私たちにもパウロと同じ務めが委ねられています。

8月12日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章1節〜6節から、「キリストを宣べ伝える者」と題してメッセージです。


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