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ついていけばわかる

『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。イエス様は町々村々を巡り歩いてそう語られました。福音と聞けば当時の人は「何かからの勝利の知らせ」をイメージしました。福音を伝える者には褒賞が与えられ、福音を聞く者には分け前がある、という期待感がありました。しかしマルコによる福音書は、イエス様が宣べ伝えた福音がどんなものかをまだ記しません。じれったい!まず、福音に備えて私たちのするべきことを記しました。そして今回、イエス様の仕事始めにされたことを記します。ということで、8月19日(日)の礼拝は、「ついていけばわかる」と題してメッセージでした。

イエス様は招かれる

イエス様の仕事始めは、人を招かれることでした。イエス様はガリラヤ湖岸辺を歩かれ、網を打っているシモンとアンデレという兄弟に『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』と言われました。すると2人はすぐにイエス様についていきました。漁師はガリラヤ湖周辺ではありふれた職業。貧しくとも少しの準備でできます。次に舟の中で網を繕っているゼベダイの子ヤコブとヨハネをお招きになりました。するとこの2人もすぐについていきました。ヤコブとヨハネは漁師でも裕福な家庭。雇い人や舟があるからです。イエス様は福音を宣べ伝えることを1人でやろうと思われませんでした。イエス様はまず、イエス様の言葉やわざを間近で見、共に生活し、共に働いてくれる人、福音を一緒に体験してくれる人を求められたのです。イエス様は近づきにくいお方ではなく、近づきやすいお方。いえ、イエス様の方からどんどん近づいて下さるお方。貧しいか富んでいるか、ありふれた職業かそうでないか、関係ありません。イエス様の方から断る理由を誰にも持っておられません。シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネと同じように、イエス様は私たちにも「わたしについてきなさい」と招いて下さっているのです。

私たちはついていく

私はこの記事を読んで疑問に思いました。小さい頃、知らない人に声をかけられても、ついていっちゃダメ!と教えられました。しかし彼らは仕事や道具や家族をその場に置いてホイホイついていった。大丈夫か?最初に登場したバプテスマのヨハネが、ユダヤ全土とエルサレムの全住民に、イエス様のことを紹介していました。またイエス様も、最初にあげた御言葉をガリラヤで宣言しておられました。「イエスって知ってる?」「バプテスマのヨハネが言ってた人?」「福音、福音、言うてるあの人?」と噂は広がっていた。みんな興味津々だった。ゼベダイも「ここはええから、ついていってみ!」と送り出してくれたのかも知れません。この記事は全てを捨てて従うような献身を言っているのではありません。彼らは漁師をやめたわけでも家族を捨てたわけでもありません。後の記事を読めばわかる。私たちは安心してイエス様についていけばいい。仕事や学校をやめる必要はない。今ある家族を捨てる必要もない。別世界に旅立つのでもない。イエス様は私たちと共に、私たちの日常生活の中を歩んで下さるからです。今まではイエス様のいない日常生活。これからはイエス様が導かれる日常生活になる。それがイエス様についていく、ということなのです。

『人間をとる漁師』とは一見穏やかでない言葉に聞こえます。しかしイエス様が私たちを魚のようにとって食べるわけではありません。イエス様についていく人がどんどん増えていくことを言います。イエス様は神の国と福音の豊かさを、ついてくる人に分かち合い、味わってもらい、楽しんでほしいと願っておられます。百聞は一見にしかず。ついていけばわかる。招かれていない人はいない。あなたも招かれています。

8月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章7節〜15節から、「この宝で生きる者」と題してメッセージです。


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