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罪と死と呪いの本質−その②

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世界最初の伝言ゲーム、キャッチセールス、かくれんぼ…。世界最初の住まいであるエデンの園で起きた事件は、私たちの失われた記憶のみならず、私たち自身を失った起源を描いています。今回はその続き。7月10日(日)の礼拝は、創世記3章11節〜24節から、「罪と死と呪いの本質」その②と題してメッセージでした。

なおも、神でないものの支配下に居座った

ここに世界最初のあっち向いてほい!があります。「へび」という「神でないもの」に向いて聞いて従った妻と夫。神様の命も知恵も愛も途切れてしまった妻と夫。体をイチジクの葉で覆い、それでも足りずに神様の前から身を隠した妻と夫。しかし神様はそんな人になおも声をかけて下さいます。ところが夫は「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と言いました。すると女は「へびがわたしをだましたのです」と言いました。この女のせいです!このへびのせいです!どっちを向いて、どっちを指さしているのやら。他人のせいにするとは他人の責任や支配の元に自分を置く行為。自分には主体性も責任も、自由も尊厳もないことを表明すること。神様が「あなたはどこにいるのか」と聞かれても、もはやそこには主体性や責任のある、自由や尊厳をもった「私」はいなかったのです。

祝福とは反対の呪いをもたらす

「のろい」とは、何か得体の知れない存在が私たちにまとわりついて恐ろしいことをするのではありません。神様の命も知恵も愛も持ち合わせていない、嘘つきで無責任で何もない存在に、私たちが向いて聞いて従った結果、命も知恵も愛も失っていく状態を言うのです。そしてその行き着く先が無い無い状態になる死なのです。妻は産みの苦しみが増すと言われました。本来命を生み出すことは祝福でしたが、それにブレーキがかかるようになりました。また妻は夫を慕うが夫は妻を支配すると言われました。助け手同士の協力関係が、不安定で歪んだものになりました。人は汗して働き苦労して食べるようになると言われました。まず食物がふんだんにあって、それから仕事があった最初とは真逆になりました。そして人は土に帰ると言われました。霊と体があって人は人たり得ましたが、体は朽ちていき、手放さなくてはならなくなりました。

それでも神様からの仲直り

ここに世界最初の仲直りがあります。しかも神様が仲直りのプレゼントを用意し、神様から仲直りの手をさしのべられました。その仲直りのプレゼントは「皮の着物」。皮の着物ですから何かしら動物が殺され、血が流されたことでしょう。すぐに枯れてしまうイチジクの葉ではなく、ある程度長持ちする「命の皮ごろも」と言えるもの。人はこの皮の着物を、神様からどんなふうに着せてもらったか?私が子どもに服を着せるとき、いつも向かい合って、子どもが頭を少し下げて、そして着せていました。着せ終わると子どもは頭を上げ、再び私と顔を合わせました。世界最初の人、アダムとエバも神様に向き直って、頭をたれたのではないでしょうか。皮の着物を着せられて、ようやく神様の顔を見上げて、恐れなく立つことができたのではないでしょうか。

私たちは最初の人を責められません。私たちも同じことをしているからです。私も「○○ちゃんのせいや!ぼく悪くないもん!」なんて言ってました。神様はあくまでも祝福の神様。私たちに幸せに生きてほしいと願っておられます。私たちがどんなにひどい状態になって自分を失っても、神様の方から回復と祝福の手をさしのべて下さいます。じゃあその祝福に立ち帰り、自分を取り戻す方法は?神様に向き直って自分の過ちを認めることです。そして仲直りのプレゼントを受け取ることです。「神様。私が悪いんです。私がしてはいけないことをしました。私が止めればよかったんです。私があなたに聞き直せばよかったんです。ごめんなさい。あなたに向いて聞いて従います。まずは仲直りのプレゼントを受け取ります。ありがとう」。これで再び神様とつながります。私の主体性と責任を失わず、自由と尊厳を取り戻せるのです。これを「悔い改める」と言います。

これで一件落着かと思いきや、なおも事件は続きます。7月17日(日)の礼拝は、創世記第4章1節〜16節から、「罪と死と呪いの本質」その③と題してメッセージです。


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