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神のかたち、ヨセフ

「子は親の鏡」「親は子の鑑」という言葉があります。前者は子どものすることが親に似ているということです。後者は親が子どものお手本だということです。いずれにしても親が本元。今時、子どもは親ばかり見ているわけではありませんが、それでも親の影響は絶大です。さて。私たちは見えない神様を世に映し出し、祝福を地に広げる「神のかたち」として創造されました。ペリシテ人アビメレクはアブラハムやイサクの労苦する生き様に、神様を見ました。そしてパロの侍従長ポテパルもヨセフの仕える様に、神様が共におられるのを見ました。創世記の最初に創造された「神のかたち」を、創世記の終わりに登場するヨセフに見て、私たちの基本を学ばせていただきたい。ということで、9月2日(日)の礼拝は、創世記第40章1節〜第41章57節から、「神のかたち、ヨセフ」と題してメッセージでした。

神がしようとされることを知る

ヨセフはポテパルの管理下にある獄屋にいました。しかし獄屋であっても神様はヨセフと共におられます。ヨセフは獄屋番の好意を得、獄屋番の仕事を肩代わりし、他の囚人に仕えました。この獄屋は政治的高官が入ってくる獄屋でした。ここに登場する『給仕役の長』も『料理役の長』もパロの最も身近な重要人物です。彼らはそれぞれ夢を見、ヨセフの夢解きの通り、給仕役は釈放され、料理役は処刑されました。それから2年後、パロも夢を見ます。この時、ヨセフは獄屋から出され、パロの夢を解き、7年の大豊作と、その後の7年の大飢饉が現実になります。ヨセフはいずれの夢解きの場合も「私ではなく神様が解かれる」と前置きし、パロには『神がパロに平安をお告げになりましょう』と言います。命と死の現実や順風満帆と逆風破船のような現実は、夢を解いても解けなくてもあります。聖書はそういう現実を正直に記します。でもそれで終わらない。神様は私たちを祝福したい。平安を与えたい。それが神様がしようとされること。私たちもそんな神様がしようとされることを知る者、語る者でありたいと思います。

自分のするべきことを知る

ヨセフこの時30歳。まるで権威ある者のように語ります。これからの大豊作と大飢饉に備えて、国家の危機に対して、よどみなく、具体的に、それでいて端的に、パロのするべき明確なビジョンを。なぜこんな提案ができたのか?それは政治的高官が入ってくる獄屋で仕え、エジプトのあらゆる情報を知ることとなったからです。「なんでこんな所に!神様ひどい!神様なんか信じない!」と言っている間は、そんなことはわからない。「こんな所」にも神様はおられ、しようとされるお考えがあり、私たちのするべきことがある。私たちはヨセフよりもはるかに恵まれた時代に生きています。神様のお心を知るための聖書をみんな手にできます。瞬時に世界中の情報を知ることのできる道具を常に携帯しています。神様の言葉である聖書から神様がしようとされることを知ると共に、今の時代や今ある場所をよく捉えて、私たちのするべきことを知る者、伝える者でありたいと思います。

祝福を広げるために仕える

ヨセフは囚人からパロの次の位へ一気に変えられました。そこで彼がしたことは威張ることではありません。国家を救うため、パロとその国民を生かすため、引いてはより多くの人を助けるため、仕えて治めたのです。ポテパルに仕えポテパルの家を治め、獄屋番に仕え獄屋を治め、パロに仕えパロの家を治めたのです。彼の人生は仕える人生。そのスタンスは変わらない。この「治める」という言葉は「置く」という意味があります。「神のかたち」は地に置かれ、仕える(創世記の最初では「耕す」と訳されている)ことで治め、神様の祝福を満たすために創造されました。ヨセフもポテパルの家、獄屋、パロの家へと次々置かれ、治め、祝福と平安をもたらすのです。ヨセフは「神のかたちの鑑」のようです。「仕事」という漢字も「仕えること」。私たちの仕事は本来、みんな仕えること。仕えることで治める。治めることで祝福をひろげるのです。私たちも神様に置かれている生活や学びや働きの場があります。委ねられている人間関係があります。そこに私たちのするべきことがある。するべきことを通して仕え、治め、祝福と平安を分かち合う者でありたいと思います。

9月9日(日)の礼拝は、創世記第42章1節〜38節から、「真実を求めるヤコブ」と題してメッセージです。


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