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真実を求めるヨセフ

心理テストを受けたことがあります。結果は「うそ尺度」が高い。「牧師なのに!私、最悪です」と言うと、先生は「厳格な親や大人たちの中で育ったり、成果を厳しく求められる環境に置かれると、必死になって認めてもらおうと頑張る。でもどれだけ頑張っても認めてもらえない。ますますよく見せようと頑張る。そしていつまでたっても自信がない。そんな状態になるのです」と説明して下さいました。「ありのままに」とはよく聞く言葉ですが、知らず知らずのうちにありのままではいられない自分がある、とその時教えられました。このありのまま。聖書でいう『真実』に近いのではないかと思います。ヨセフの兄たちは『真実』ではありませんでした。ということで、9月9日(日)の礼拝は、創世記第42章1節〜38節から、「真実を求めるヨセフ」と題してメッセージでした。

正直を自称する兄たち

パロの夢は現実となりました。7年の大豊作の後、7年の大飢饉が始まった。その飢饉はヤコブ一家をも襲いました。ヤコブは末っ子ベニヤミン以外の子どもたちを食糧確保のためエジプトに行かせます。ついに10人の兄たちはヨセフにひれ伏します。ヨセフの夢の実現です。ヨセフは兄たちがわかりましたが、兄たちはヨセフだとわかりません。ヨセフは彼らを回し者だ!と言います。エジプトは国防上の理由で東から来る民族に警戒していました。兄たちはそれを理解してか、こたえます。『いいえ、わが主よ、しもべらはただ食糧を買うためにきたのです。われわれは皆、ひとりの人の子で、真実(正直)な者です。しもべらは回し者ではありません』。そしてヨセフが聞きもしない「いなくなった」弟や家に残してきた末弟の話をべらべら。しかし彼らは正直に話しませんでした。ヤコブのもとに帰ってからも、エジプトでのやりとりを正直に話しませんでした。兄たちはヨセフにもヤコブにも聞こえの良いように話したのです。

真実を求めるヨセフ

『あなたがたに誠実(真実)があるかどうか、あなたたがたの言葉をためしましょう』。先ほどの「正直」と違い、神様の「真実」を言う言葉が使われています。そして私たちが神様の前に真実になった時、神様に「アーメン(真実です)」と告白し従える、そういう言葉。そして真実はためされることで出てくることもある。ヨセフは兄たちを三日間監禁所に入れました。彼らは心探られます。監禁所から出されヨセフの提案(兄弟一人をここに置き、食糧を持って帰り、末弟を連れてくる)を聞いて、ヨセフの前で自分たちの『罪』について語り合います。彼らとヨセフの間には通訳がいて、兄たちはヨセフにはわからないと思っていました。まるで兄たちの心を見ているかのようです。ヨセフは沈黙し見守ります。そして涙せずにはおれませんでした。

不信仰な信仰者たち

2番目の兄シメオンをエジプトに残し9人でヤコブのもとに帰ることになりました。帰り道、食糧の代金が袋に返してあることがわかります。『彼らは非常に驚き、互いに震えながら言った、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」』。ヤコブも同じように恐れました。そしてこう嘆きます。『ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンも取り去る。これはみんなわたしの身にふりかかって来る』『あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせる』。彼らの反応は、神様が恐ろしいお方で、何もかも奪い去るかのようです。でも神様は祝福の神様。良いものを与えてやまないお方。彼らの方が今まで、さんざん、人を欺き、奪い、殺し、恐ろしいことをやってきた。でも今、自分たちは哀れな正直者だと思っているのです。

私たちも心に秘密や闇がないか。それはひょんなことであらわれる。そして取り繕っていないか。自分を正しいとしていないか。神様はその心を、憐れみの目で見ておられる。だからといって土足で踏み込むようなことはなさらない。私たち自ら、真実になってほしいと願っておられる。祝福を受けるにふさわしい者になってほしいと願っておられる。良いも悪いも、強いも弱いも、表も裏も、成功も失敗もあることを認める。開き直るのではなく神様に向き直る。アーメンと従う者になるのです。真実を求める神様。それは私たちをさばくためではなく、祝福を分かち合う者としたいからなのです。

9月16日(日)は年長者祝福カフェスタイル礼拝。ダニエル書から、「大いに愛せられる人」と題してメッセージです。


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