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罪を認め、罪を負うユダ

神様の祝福の物語は、アブラハム、イサク、ヤコブと来て、さらに二人の物語で構成されます。ヨセフとユダです。ヨセフは神のイメージです。相手からは見えず、こちらからは見えている存在。そして相手を何としても祝福に導こうとする、忠実で、忍耐深く、真実を求める存在。ユダは罪人のイメージです。目先の欲望を満たそうとする存在。冷酷で、自己中心的で、うそも平気な存在。対照的な二人ですが、大飢饉という危機的状況を通して、またヨセフの試練(テスト)を通して段々近づくのです。そしてクライマックスを迎えようとします。ということで、9月30日(日)の礼拝は、創世記第44章1節〜34節から、「罪を認め、罪を負うユダ」と題してメッセージでした。

ためされるユダ

ヨセフは最後の試練を仕掛けます。末弟ベニヤミンの袋に大切な銀の杯を入れておきます。彼らが帰路についたらすぐに追いかけ、銀の杯を盗んだ疑いをかけ、銀の杯を盗んだ者は奴隷にならなければならないと言います。兄弟たちは急いでヨセフの下に引き返します。私たちは災害が頻発する中に生きています。災害は起こってほしくないけれど、起こるとどこが弱く、どこに備えが必要かがわかります。そして何が起こってもいいように準備するようになります。それは自分だけではなく、周りを助ける備えにもなります。災害はある意味、私たちを目ざめさせ整える。ユダたちに降りかかった試練はヨセフが仕組みました。しかし神様からの試練(大飢饉という背景)でもあります。しかしいたずらに試みられるのではありません(注意喚起と備えはできている)。ユダたちへの罰でもありません。神様からの試練は、彼らの悪い所や弱い所が明らかにされ、彼らが真実になり、さらに良いものをもたらすためにあったのです。

とりなすユダ

ユダの長いとりなしが始まります。『神がしもべらの罪(咎、悪という言葉を使用)をあばかれました』と言い、ヨセフににじり寄り『もしわたしがこの子(ベニヤミン)をあなた(ヤコブ)のもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪(罪のいけにえ、自分を失うという言葉を使用)を負いましょう』と父ヤコブと約束したと語り、必死でとりなします。ユダは何を持って『しもべらの罪』と言っているのか?銀の杯のことだけではないでしょう。ヨセフのことにおいて負い目があった。ユダはユダなりに必死で罪を認め、必死でとりなし、必死で父の思いに寄り添いました。先頭切って自分が犠牲になり、自分を失ってもいい!という必死。みんなを助けるための捨て身。ここに全てをさらけ出したユダ、真実なユダ、ユダらしいユダがいるのではないでしょうか。

キリストのひながたユダ

ユダはどれほど正確に自分の罪を認められたかわかりません。ベニヤミンの肩代わりをして本当に罪を負えたかわかりません。しかしユダのヨセフの前で必死にとりなす姿はキリストに似ているのです。キリストは私たちの肩代わりをするため、先頭切って神様ににじり寄り、とりなし、十字架にかかり、罪のいけにえとなり自分を失われました。もし自分に罪があれば自分を永久に失うのみ。誰の助けにもなりません。でもキリストは復活された。自分に罪がないから。十字架は純粋に私たちの罪のため。そして私たちにも永遠の命と復活を与えるものとなった。父なる神様の「誰も失いたくない」という心にかなうものとなった。罪人のイメージユダは、ここに来てキリストのイメージとも重なっているのです。完全なひな形は存在しません。ヨセフにせよユダにせよ突っ込みどころ満載です。もし完全ならそれは本物。本物はキリストなのです。

『アブラハム、イサク、ヤコブの神』と来て、なぜユダとその子孫に光が当たっていくのか、ユダからキリストが誕生するのか、少しはおわかりいただけたでしょうか。決して聖人君子ではなかったユダ。しかし罪を認め、真実になったからこそ、大いなる救いが現れるに至りました。私たちもいつも真実でありたい。試練があればなお神様ににじり寄り真実でありたい。そしてどんな中にも神様の救いと祝福をもたらし、分かち合う者とさせていただきましょう。

10月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章16節〜第5章10節から、「見えないものに目を注ぐ者」と題してメッセージです。


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