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見えないものに目を注ぐ者

小学生の頃、誰はばかることなく教会へ行っていることを話していました。ある時、友達に「神様を見せてくれたら信じるわ」と言われ、答えに窮し、悔しい思いをしたことがありました。「神様、あなたはなぜ見えないの?」と子ども心につぶやきました。だからといって私は信仰を失いませんでした。逆に牧師になり、見えない神様の言葉、聖書の記す言葉を語り続けています。ということで、10月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章16節〜第5章10節から、「見えないものに目を注ぐ者」と題してメッセージでした。

永遠の重い栄光を目指す

『私たちの外なる人が滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく…このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる』とパウロ。「私たちの体は壊れ続けても、霊的な私は日々新しくされ続け、しばらくの軽い患難は燃料となって、測り知れない永遠の重い栄光を測り知れなく生み出す」と言うことです。私たちに「見える」ものは束の間です。「見えるものしか信じない」と言う人もやがて見えなくなります。「見える」と言い張るこの世界でさえ見渡せていません。「見える」もの以上に、「見えない」はるかに多くのものに支えられていることを見ていません。その最たるものが神様です。プログラマーがコンピュターの中の世界を作り上げ、その世界が営みを始めた場合、その世界の住人に彼は見えません。彼はその世界のすぐ近くにいて、全てを見て、プログラムに手を加えることもできます。ではどうやって自分の存在を知らしめる?その世界の住人にわかる言葉で自分を示すこと。そしてその世界の住人の姿を借りてその世界に入り込むことです。そしてその世界の住人が彼に気づいて語り出したらうれしいですよね。彼は自分の作った世界のルールに従って、その世界のものを用いて、その住人にこたえようとします。神様と聖書、人となられたキリスト、神様への祈りとそれにこたえて下さる神様の恵みを、少しは理解できないか?もう一つ。私たちが生きる、この「見える」世界だけではなく、もっとリアルで大きな世界がある、ということを少しは理解できないか?見えなくとも「有る」ものこそ確か。私たちの体は土の器のように壊れやすい。見えるものだけを信じるなら、今見える束の間の患難が全てになって「おしまいだ」と落胆するだけ。でも私たちは違う。今は見えなくとも「有る」ものに目を注ぐ。宝であり測り知れない力であるキリストを内に持つなら、死を燃料に命が生み出され、しばらくの軽い患難を燃料に測り知れない永遠の重い栄光が測り知れなく生み出されるのです。

そのために御霊と信仰によって歩む

「私たちは御霊によって心強い」「私たちは信仰によって心強い」とパウロ。御霊も信仰も見えません。でも見えなくとも「有る」ものこそ確か。心強い。私たちはプログラマーによる世界の住人よりもはるかに優れています。プログラムが停止すると私の全てが停止するのではありません。私たちは見える体と見えない霊の融合体。パウロは今の体を『幕屋』(テント)と呼び、霊を『裸』と呼びます。霊が本体。見えなくとも「有る」私の霊を確かなものにし、見えない神様にしっかり結びつけるために必要なのが御霊と信仰。神様からは御霊、私たちからは信仰。この双方向の結びつきによって永遠の重い栄光は確かなものとなるのです。

ついにキリストを見て映し出す

『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない』とパウロ。何だか怖い?大丈夫!宝であるキリストを内に持ち、患難を通してキリストの苦難を味わった者は、再臨の時、キリストと同じ復活の体をすでに着せられているから。パウロはそれを『永遠の家』『天から賜るすみか』と呼びます。グレードアップ!私たちは、向いているものを映し出す特性があります。神様に向いて聞いて従うなら、神様を映し出す「神のかたち」として本領を発揮します。しかし神でないものに向くなら、神でないものを映し出し、悪を行う者となっていく。だからこそ見えなくとも「有る」父なる神・キリスト・御霊に目を注ぐ。聖書の言葉に聞いて従う。それが信頼というもの。それこそ『主に喜ばれる』歩み。自ずとキリストを映し出す。そして再臨のキリストと相見える時、キリストの栄光をダイレクトにいただいて映し出す。見えなくとも「有る」あふれるばかりの永遠の重い栄光を、新しい復活の「身をもって」味わうようになるのです。なんとワクワクすることではないでしょうか。

10月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章11節〜15節から、「主の愛に抱きしめられる者」と題してメッセージです。


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