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権威ある新しい教え

月に一度、マルコによる福音書から「神の子イエス・キリストの福音」に耳を傾け始めました。これまでも福音と呼べる恵みが数々ありました。でもまだ序の口。イエス様の活動はこれから。イエス様は、その活動を一緒に見て体験する人々を招かれました。シモン、アンデレ、ヤコブにヨハネ。そして私たち。さあ、今回は何が待ち受けているでしょうか?ということで、10月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章21節〜28節から「権威ある新しい教え」と題してメッセージでした。

イエス様は権威ある者

カペナウムというガリラヤ湖北部の町の安息日。安息日の由来は天地創造にあり。6日間で創造のわざを完成された神様は、7日目にそのわざを休まれ、その世界の素晴らしさを人と共に味わわれました。安息日が定められたのはモーセの時代。イスラエルの民がエジプトで奴隷状態だった時、神様はモーセを遣わして解放し、自由を得させられました。神様と共にこの世界を楽しみ、解放と自由を喜ぶ。それが安息日。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まで。金曜の夕食はいつもより馳走。翌朝は会堂に集い、聖書の朗読や律法学者の話に耳を傾けます。聖書は聞くもの。聖書の物語をみんな楽しみにしていました。イエス様は会堂で教え始められましたが、律法学者とは明らかに違う!『権威』がある!この権威。当時の人は神様にのみあり、王様や偉い人の権威は神様から部分的に委託されたもので、人には本来ないものだと理解していました。では律法学者はというと、有名な先輩律法学者の解釈や説教を権威として教えていました。借り物。でもイエス様の話を聞いた人々は「この人には借り物ではない、人のものではない権威がある」と認めました。

イエス様は神の聖者

会堂には町中の人が集まります。当然いろんな人がいる。その時は『けがれた霊につかれた人』がいました。「けがれた霊」は「悪霊」とも呼ばれました。サタンの手下。けがれの元。当時の人は宗教的な「けがれ」に敏感でした。それに関する律法がたくさんあったから。けがれに触れない、近づかない、関わらない。でなければけがれる。けがれたら様々な手順できよめの儀式を行う必要がある。みんな遠巻きにしていたかも知れません。悪霊はイエス様を見て『わたしたちを滅ぼしにこられたのですか…あなたが…神の聖者です』と叫びました。もはや「その人」ではなく「わたしたち」という悪霊が支配している。しかしイエス様はその悪霊をその人から追い出し、その人を解放されました。この『聖者』は「きよい人」という意味ではありません。「きよい神様」を現す言葉です。しかし目の前にいるのは人間のイエス様。だからあえて『神の聖者』と呼んだのでしょう。イエス様はけがれるどころかけがれを追い出した。イエス様が普通の人間ではないことを、悪霊のみならず人々も認めました。

イエス様は権威ある新しい教え

人々はイエス様の教えとわざに驚き、その二つを持って『権威ある新しい教だ』と言いました。イエス様が権威。イエス様が新しい教え。口先だけではない、実際に生きて働く神様の教え。イエス様の福音宣教のデビュー戦は、イエス様が神の子であることを裏付ける言葉と出来事てんこ盛り。私も悪霊追い出しを体験をしたことがあります。今も悪霊はいる。しかし何でもかんでも悪霊払いすれば事は済む、というのではありません。昔は悪霊の仕業と思われていたことが、医療的な光や心理学的な光が当てられ、治療や関係療法で回復する病理学的な問題であることがわかってきました。でも医療的に心理学的に治療すれば全て事は済む、というのでもありません。悪霊なんて非科学的だ!科学に頼るなんて不信仰だ!という論議は意味がありません。肝心なのは、その人が解放され、元気になり、本当の安息を得ることです。イエス様はそのためにこの世界に来て下さった。これこそ福音ではないか。何からの勝利か?といえば、今回は悪霊からの勝利と言った所。でもまだ始まりに過ぎない。これから、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネと共に、『権威ある新しい教え』に向いて聞いて従ってまいりましょう。

10月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章16節〜21節から、「神の和解に生きる者」と題してメッセージです。

 


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