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神の和解に生きる者

みなさんは「見方が変わる」「見え方が変わる」という経験をされたことがあるでしょうか。一枚の絵が、見方によっては婦人の立ち姿にも見え、老婦の顔にも見える、というものもあります。自分やわが家では当たり前だと思っていたことが、他人や他家からすればそうでもなかった。自分にとって短所だと思っていたことが評価された。言われて始めて気がついた。等々、見方・見え方が変わることで、そのものの様子や価値観・生き方まで変わる、ということがないでしょうか。パウロもそんな自分の経験を重ねながら証ししています。ということで、10月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章16節〜21節から、「神の和解に生きる者」と題してメッセージでした。

キリストへの見方が変わる 16節
コリント教会でパウロを批判し、使徒疑惑を煽っていた自称教師たちは、パウロの持つ神様の力も愛も持ち合わせていませんでした。だから心を誇れず、うわべしか誇れませんでした。しかし『かつて』のパウロもそうでした。彼は有名な先生のもとで学んだバリバリのユダヤ教徒。聖書にも精通していたはずでした。しかしイエス様をキリストと認めず、教会を迫害し、死へと追いやっていました。イエスは神の子と自称した神への冒涜者。だから十字架にかけられて死んだ負け犬。これが『かつて』のパウロが『肉によって知っていた』イエス様。でも復活のイエス様に出会って180度変わった。イエスは我々の罪のために死んで復活した。イエスがキリストなら、その生涯と十字架の死と復活は、聖書に合致し、理にかなっている。聖書の見え方さえ変わった。すると、かつての自分のような人々から批判されるようになった。その批判こそが、パウロが本物の使徒であることの証しとなったのです。

自分への見方が変わる 17節
『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』。第4章でパウロは「私の内にいるキリスト」を記し、第5章で「キリストの内にいる私」を記します。私の内にある神の絶大な力、私を包む神の絶大な愛、キリストの死と命は、私の死を燃料に命を生み出し、しばらくの軽い患難を燃料に永遠の重い栄光を生み出します。そして古い私を葬り去り、すでに全く新しい私に造り直してくれているのです。確かに、昨日の家族構成や職場や学校ががらりと変わることはありません。うわべはそう変わらない。でも内側を見るなら「神のかたち」が再創造され、「神の子」として新創造されている。パウロはそんな私たちをキリストの『使者』だと記します。全権大使。キリストは救いをもたらす全権大使。そして今度は、私たちが救いを伝える全権大使とされているのです。

神と人との関係が変わる 18節
『しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった』。『努』は「もてなし」という言葉。神様の和解を振る舞って人々をもてなすこと。それが全権大使の努め。パウロはコリント教会に言います。『神の和解を受けなさい』。まずあなたがたが。自称教師たちの神様イメージは厳しく怖いお方。そんな神様イメージを振る舞われたコリント教会は神様を見失っていた。でも神様は愛し近づき包み仲直りしたいお方。神様に非はない。私たちに非がある。なのに神様が仲直りのプレゼントを用意し、手を差し伸べておられる。プレゼントはキリスト。それは罪を知らないキリストを私たちの罪の身代わりとし、キリストの代わりに私たちを義とします。キリストだけが犠牲になったのではなく神様も共に苦しまれた。罰はご自分たちが受け、私たちを何とか救い出し、交わりの中で私たちを回復し、成長させ、栄光に輝かせたいと願っておられる。神様のプレゼントには愛と涙がこもっている。神様との関係には愛と喜びがあふれている。これが『神の和解』なのです。

あなたは一番身近な隣人と和解していますか。もてなしていますか。喜びをもって。ギュウッと抱きしめる愛をもって。まず、神の和解を受けなさい。神の和解をあなたが喜び楽しみ、あなたの隣人に振る舞い、もてなすのです。

11月4日(日)の礼拝は、創世記第45章1節〜28節から、「神の大いなる救い」と題してメッセージです。

 

 


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