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罪と死と呪いの本質−その③

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「メッセージの題は前向きなものに」と神学校の先生に教えられました。「罪と死と呪い」なんて後ろ向きの連続です。しかしこの罪と死と呪いにしっかり向き合い、その本質を心得ない限り、前を向いて進めないのではないでしょうか?しかしようやく一区切りです。7月17日(日)の礼拝は、創世記第4章1節〜16節から、「罪と死と呪いの本質」その③と題してメッセージでした。

今日はアダムとエバの子どものお話しです。

やっぱり神様に顔を向けない

アダムとエバの長男はカイン。父親と同じ「土を耕す(仕える)者」になりました。次男はアベル。「羊を飼う者」となりました。そしてカインは「地の産物」を、アベルは「(羊の)ういごと肥えたもの」を神様の前に供え物としました。しかし神様は「カインとその供え物」を顧みられず、「アベルとその供え物」を顧みれました。神様って野菜嫌いで肉好きなん?って思えなくもありません。この「顧みる」は「見る」という言葉です。二人の供え物の主体はカインでありアベルです。神様はアベルは見られたけれどカインは見られなかった。いやカインには隠している何かがあった。「カインは大いに憤って、顔を伏せた」という言葉がそれを表している。神様に向いていないのです。神様は言われます。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。創世記第3章に次のような神様の言葉があります。「あなた(妻)は夫を慕い、彼はあなたを治める」。似ていません?罪と妻を同列にしているのではありません。妻は本来、夫の大切な協力者であり、治めるべき者ではありませんでした。罪は本来、人には無縁であり、治めるべきものではありませんでした。しかしカインは神様に向かないことで、罪を自分で治めるか、罪に支配されるか瀬戸際に立っていたのです。

一番身近な人の命を絶ってしまった

世界最初の殺人事件が起こりました。家庭内殺人でした。カインは罪に支配されたのです。かつてアダムとエバが身を隠したとき、神様は神様の方から「あなたはどこにいるのか」と声をかけて下さいました。カインは殺人を隠れてやったと思っても神様はアベルを見ておられました。そのアベルが見えなくなった。神様は同じように声をかけられます。「弟アベルは、どこにいますか」。

嘘をつく

「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。アダムとエバはいい加減なことを言い合いましたが、カインははっきり嘘をつきました。「へび」という神様でない者は嘘つきでした。嘘つきに向いて聞いて従い、その支配下に居座り続けるなら、だんだんいい加減なことを言うようになり、最後には真っ赤な嘘をつくようになるのです。

自然界から拒絶される

アダムは食べてもいい木から取って食べないで、食べてはいけない木から取って食べる、という真逆なことをしたので、作物が実りにくくなることが起こりました。しかし土地を離れることはありませんでした。しかしカインは土地に無理矢理アベルの血を飲ませました。土地にしてみればこんな輩に管理されるのはたまったものではありません。土地はカインを拒絶しました。

神様のせいにする

カインは自分が招いた呪いを神様からの重い罰で負いきれない!と文句を言い、土地から拒絶されたことも、神様から離れなければならないのも神様がそうしたんだ!と言い、さらに自分が人を殺しておきながら、自分は必ず殺されると恐れています。神様のせいにするのは、神様の支配下に居座ろうとしているからではありません。従う意思はない。あくまでも自分のせいじゃない、責任はない、罪はない、と言うためでした。

それでも神様は一つのしるしをつけられる

神様は「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」と言われます。これは復讐の連鎖を言うのではなく、殺人は絶対あかん!と言うことです。そしてカインに一つのしるしをつけられました。どんなしるしかはわかりません。カインはどんなふうにそのしるしをつけてもらったか?両親が皮の着物を着せてもらったときと同じように、神様に向き直ったんじゃないか。そしてカインでさえも神様に触れていただけたのです。

親よりも子どもの方がひどい!と思いますか?だからといって親の罪が免除されるわけではありません。親は親で、子どもは子どもで、私は私で、神様に向き直って聞いて従い始める必要があります。私たちは、最初の人と神様との決定的な断絶ゆえに、神様が命の母ではなくなり、エバという限りある死ぬべき者が「すべて生きた者の母」となったからです。だからそれぞれが神様とつながり直す必要がある。そうすれば神様は救いの道、生きる道、祝福の道を備えて下さり、お互いは支配する者される者ではなく尊厳ある助け手となり、罪からも自由でいられるのです。今、虐待やハラスメントや殺人やテロや戦争や自然破壊があふれています。その問題を神様のせいにしたり、宗教や民族や人種や政治やイデオロギーのせいにして、自分は無関係だ!自分は正しい!と主張する人もいます。でも、私たちがどんな立場であろうとも、神様に向かず、神様から反対の方へ行けば行くほど、遠く離れれば離れるほど、だれでも、いくらでも、ひどくなれる。残忍になれるのです。それが罪の本質です。神のためにやっている!と叫んでも、命を奪い恐怖で支配しようとするなら、その言葉は偽りなのです。

7月24日(日)の礼拝は、創世記第4章17節〜26節から、「文明の起源とその本質」と題してメッセージです。


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