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安息日の家族

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』で始まったマルコによる福音書。イエス様の福音がどんなものか?何からの勝利か?どんな分け前があるのか?イエス様の活動が本格的に始まりました。そのオープン戦は安息日の会堂での権威ある教えとけがれた霊の追い出しでした。今日は安息日における続きのお話し。ということで、11月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章29節〜31節から、「安息日の家族」と題してメッセージでした。

駆けつけるイエス様

『それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレの家にはいって行かれた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた』。シモンのしゅうとめは熱病で礼拝に出席できませんでした。シモンとアンデレは一足早く家に戻ったのかもしれません。イエス様も『すぐ』ヤコブとヨハネを連れてシモンの家へ。会堂での出来事を目撃した多くの人々も後をついて来ていました。そして人々も『さっそく』しゅうとめのことを知らせました。この『すぐ』『さっそく』は同じ言葉。すぐに。すぐに。イエス様は礼拝の中にいるけがれた霊につかれた人を解放されましたが、礼拝に来られない熱病のしゅうとめのもとにも、急いで駆けつけて下さいました。

起こされるイエス様

『イエスは近寄り、その手をとって起こされると、熱が引き』。『とって』という言葉は「支配する」「自由にする」「獲得する」という意味もあります。『起こされると』という言葉には「目ざめる」「よみがえる」「立たせる」という意味もあります。会堂でのけがれた霊につかれた人は、けがれた霊に支配され、自分を失っていました。イエス様はその人を解放し、取り戻し、自由にされました。今回は熱病です。しゅうとめは熱病に支配され、元気を失い、床に縛られ(縄で縛られていたのではありませんよ。床から出られなくなっていたということ)ていました。当時、熱病は、その人が何かしら罪を犯した結果だ、と考えられていました。しかしイエス様は「これは神の罰だ!」なんて言われません。すぐに来て、引き寄せ、取り戻し、自由にされた。死の床から目ざめさせ、よみがえらせ、立たせられたのです。

もてなすしゅうとめ

『女は彼らをもてなした』。病み上がりで大丈夫か?そこはイエス様の癒し。イエス様を始め、たくさんの人々をもてなせたようです。ここから、イエス様を信じればどんな病気も癒される!と言いたいのではありません。イエス様の活動の中で、病や死について追々触れていきます。一言言っておくなら、私たちは日々癒されながら生きている、ということです。ここで言いたいのは、安息を得た私たちは何をすべきか?何ができるか?と言うことです。それがもてなすこと。喜びをもって丁寧に仕えること。イエス様こそ私たちの解放と癒やしと自由のため、天から地へすっ飛んできて、私たちを丁寧に扱い喜びをもって仕えて下さいました。そんな私たちも、隣人の解放と癒やしと自由を願って、喜びをもって丁寧に仕えるのです。

「おもてなしの国、日本」と言われます。海外からの人々をもてなすだけでなく、最も身近な人からもてなしているでしょうか?イエス様こそおもてなしのお方。喜びをもって丁寧に仕える神様。そこに解放と癒やしと自由がある。上から、尊大に、力でねじ伏せ、何もかも巻き上げる独裁的リーダーとは真逆です。『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』の『はじめ』は「支配」という言葉。支配という言葉のイメージがひっくり返るのではありませんか?これもすごい福音ではないでしょうか。喜びをもって丁寧に仕える神の子イエス様を信じる私たちも神の子です。安息を得た家族から、喜びをもって丁寧に仕える家族として、遣わされてまいりましょう。

11月25日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章1節〜14節から、「教会で偉い人」と題して、足立幹夫先生がメッセージして下さいます。


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