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どんな中でも恵みに生きる者

「恵み」とは「愛ぐし」(いとおしい)という言葉から来ているそうです。「切ないほど愛おしいから何かプレゼントしたい」からプレゼントしたもの。それが恵み。また恵みという漢字はぶら下げられた糸巻きと心をつなげた様で、相手を丸く抱え包み込もうとする心を意味するそうです。これらの恵みは、まさに神様のまなざしと心を表している!と思えてなりません。ではどんな恵みか?ということで、1月20日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第6章1節〜10節から、「どんな中でも恵みに生きる者」と題してメッセージでした。

今は恵みの時

『神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」』。パウロは神様からの恵みの数々を記してきましたが、なお恵みを恵みとして味わうよう勧めます。自然界は私たちが生きるための全てがそろった神様の恵みでした。医食同源というように私たちの食物は癒やしと活力をもたらすものでした。雄大な自然に立つ人や宇宙から地球を見る人は感動します。神様がいかに大きく、かつ私たちを包み込み愛おしんでおられるかを感じるからです。恵みは自然界だけではありません。私たちの営みも神様の恵みでした。アダムはエバを見て『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉』と喜びました。骨肉の愛があった。仕事は食物の次に与えられました。耕すことです。耕すとは「仕える」という言葉。自然界に仕え、互いに仕え合うことで治まるようにされました。しかし今は?結婚も家族も傷んでいる。骨肉の争いになっている。仕事は食べるため。仕えるのではなく、こき使いこき使われている。自然からも奪いまくり破壊している。人も自然も治まるどころか荒ぶるばかり。愛の枯渇したデストピアを広げている。全ては恵みだった。しかし恵みをいたずらに扱い、恵みでなくなってしまった。「こんなに台無しにしてゆるさん!」と神様のまなざしは怒っているか?いえ。今なお、私たちを切ないほど愛おしく思っておられる。神様は恵みを回復するために新たな恵みを用意された。それがイエス様の救い。この救いに罪の赦しと神の和解がある。神のかたちの回復と神の子としての成長がある。死が命に変換されるように、失った恵みも新しい恵みに変換される。ちょっと人が良すぎる、いえ神が良すぎると言えるほど。破格といえる恵みの時。私たちは今を大切にできなければ将来を大切にできません。今を大切にできれば過去を悔やむこともありません。今という恵みの時に、新しい恵みをまず受け取り、恵みを回復するべきなのです。

どんな中でも恵みの時

『この務(給仕としての振るまい)がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕(給仕)として、自分を人々にあらわしている』。パウロは人に「恵み!恵み!」と言っておきながら、恵みがないかのように自分の行いや努力で救いを達成しようとしていないか注意しつつ、神様の恵みを振るまう者として、どんな状況でも神様の恵みに徹しました。どんな状況かというと4節後半から記すわけですが、「これはちょっと御免被りたい」と思える過酷さです。「クリスチャンになってもろくなことないやん!」と突っ込まれそうです。しかし過酷な経験や恵みとは思えない状況は、今や誰にでも起こりうることです。しかし恵みに思えない「この世」をつくってきたのは私たち。神様に向かず聞かず従わず荒ぶる世界をつくり自分を貶め押し込んできた。それでいて「神はなぜ放っておくのか」「神も仏もあるものか」と叫ぶ。心が乾き、凝り固まり、トゲだらけになっている。そんな中で、一体誰が神様の恵みを伝えられるのか?同じような経験をしながら、同じような状況にありながら、神様の恵みに生きて、恵みを振るまうパウロや私たちではないか。過酷な中でのパウロの様子が6節から10節にあります。余裕やユーモアさえ感じられます。神様の恵みは人も状況も選びません。良い条件でしか受けられないのではなく、どんな中でも受けられます。ですからまず神様の恵みを受け取る。今、いつも、どこででも。この恵みに生きて振るまう。この恵みに生きなければ、恵みは途端に途切れて伝わらない。でもこの恵みに徹すれば、恵みは流れて、どんな中にも伝わるのです。

1月27日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第6章11節〜第7章4節から、「心を開きませんか」と題してメッセージです。


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