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まずは行動

「福音」とは勝利の知らせ。伝令が戦場から国へ伝える。伝令に褒賞が与えられる。その後から勝利の軍隊が戦利品を携えて凱旋。国中が喜びに沸き返り、戦利品に与り、国の支配が広がる。そんなイメージが当時の福音。では『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』はどんな勝利の知らせか?『はじめ』とは「支配」という意味もある。ではどんな支配か?今のところ、悪霊や病からの勝利。その人をその人に取り戻し、解放し、自由を与える支配。そんなことが、これまでのイエス様の奇跡から言えること。しかし『はじめ』の初めに過ぎない。いずれも安息日の出来事から言えること。今回はその続き。ということで2月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章32節〜34節から、「まずは行動」と題してメッセージでした。

まず私がイエス様に向かって行動する

イエス様は安息日の会堂で『けがれた霊につかれた者』を解放されました。その後、シモンの家で『熱病で床についていた』しゅうとめを癒されました。日が暮れて安息日が終わりました。日没が当時の日の変わり目。するとカペナウムの町中の人々が『病人や悪霊につかれた者をみな』イエス様のところへ連れてきました。なぜ日没と共にイエス様の元へ殺到したのか?安息日に仕事をしてはならない律法があったから。悪霊を追い出したり病を癒すのは医療行為に当たる。おまけに移動距離の制限等細々とした制約もあった。医療する側も医療を受けに行く側もそれが安息日なら律法を破るリスクがある。破れば罰せられる。それを恐れて安息日が明けるのを待った。そして明けると同時にイエス様の元へダッシュ!私たちは自分や家族や親しい人の急な病気や怪我に救急車を呼びます。病院へ行きます。休日か平日か、お金があるかないか、自分が何者か、どんな医者がいるのか関係なく。それと同じように、「お金がない」「俺は真っ当な人間ではない」「イエス様のイの時も知らんからあかん」と躊躇することなく、イエス様の元へ行く。連れて行く。それはマルコによる福音書の最初から言われ続けていることです。自分の罪を自覚する。バプテスマを受ける。シモンたちのようにイエス様についていく。それは全て、自分がまず行動を起こすということなのです。

イエス様も私たちに向かって行動される

イエス様は多すぎるからと人数制限したり、追い返したりなさいませんでした。安息日か平日か関係なし。ではイエス様は律法を破った悪いやつ?安息日はそもそも何のためにある?人が元気になるため。解放され自由になるため。自分を取り戻すため。喜んでお互いをもてなすため。イエス様は本来の安息日のために働かれ、平日も働かれました。イエス様に向かって行動する人々のために働き続けられました。「だから聖日は絶対働くべきだ!」と言いたいのではありません。それは「聖日は絶対休むべきだ!」と言う強制と同じこと。確かに礼拝は大事。私たちは礼拝の民。イエス様も安息日の会堂で礼拝を守られた。教会によっては日曜日の早朝や夜、平日に礼拝を開き、現代の多様なクリスチャンライフに対応しています。礼拝は大事。それと共に、イエス様は安息日か平日か関係なく人々の安息のために働かれる。私たちはどう?自分だけ安息して終わり?癒されたシモンのしゅうとめのように人々をもてなせないか?カペナウムの人々のように身近な人をイエス様の元に連れてこられないか?それはこの礼拝に連れてくることと必ずしも同じではありません。私たちがいただいた安息を届けることもできるはず。あの人にどんなもてなしができるだろうか?この人にどんな行動で安息の喜びを分かち合えるだろうか?「愛は行動です」と言われます。カペナウムの人々は行動した。イエス様も行動された。私たちも行動するのです。

まずは行動。自分が行動する。罪を自覚する。バプテスマを受ける。イエス様についていく。イエス様を中心に人々をもてなす。イエス様の元に来る。連れてくる。イエス様をお届けする。そこに神の子イエス・キリストの福音の支配が始まるのです。

2月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章16節〜24節から、「ホットな相乗効果」と題してメッセージです。


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