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祝福するヤコブ

創世記もいよいよ終わりに近づいてきました。祝福に始まった創世記は祝福を持って終わろうとしています。では祝福とは何だったか?神様の命があふれ、支配が行き渡り、愛が満ち満ちることです。ヤコブはかつて神様が祝福を約束して下さった言葉を思い起こし、子や孫を祝福しようとしています。かつて祝福を得ようと執念を燃やし、人から祝福を奪い取ろうとし、トラブルだらけだったヤコブ。しかし今や祝福する側に立つまでになった。ここから祝福する者、される者の姿を学びたい。ということで、3月3日(日)の礼拝は、創世記第48章1節〜22節から、「祝福するヤコブ」と題してメッセージでした。

ふさわしいか

ヤコブはヨセフを長子としました。第47章でヤコブは自分の葬りのことをヨセフにお願いしました。その時、ヤコブはヨセフを「拝み」ます。これは礼拝ではなく、跡取りとすることを意味します。葬りを取り仕切るのは長子の務めでした。そして第48章でヨセフの2人の子供をヤコブの子供としました。以後、ヨセフ族はこの子どもたちによる2部族扱いとなります。これは遺産相続が他の兄弟の2倍を意味します。これも長子の特権。ヤコブの長男はルベンです。ヨセフは11番目の子です。でもヨセフが長子。なぜ?他の兄弟に問題あり?ヤコブの好み?いえ。ヤコブは第47章でヨセフに「親切と誠実」を求めました。この言葉は神様の契約に基づく愛と真実を意味する言葉。それを人に使う場合は、その人がいかに神様に向いて聞いて従うかを求めるのです。ヨセフはこのことにおいて忠実でした。これが祝福を受けるにふさわしい者の姿なのです。

選ばれているか

ヨセフは長男マナセ、次男エフライムをヤコブの前に連れてきました。ヤコブは目が見えなくなっていました。そこでヨセフは、ヤコブの右手側に長男、左手側に次男を置きましたが、ヤコブは手をクロスさせて右手を次男の上に、左手を長男の上に置いて祝福しました。ヨセフは不満を述べましたが、ヤコブはわかってやっていました。またも常識と違う選択。長男よりも次男がふさわしかったのか?いえ。ヤコブは最晩年にエジプトに来たので孫たちをよく知りません。これには神様の預言的な選びがあったようです。祝福は神様が源。神様に向いて聞いて従う人に祝福は流れ広がる。まず神様ありき。かつてヨセフは、麦束や太陽や月や星(それは両親や兄弟)が「拝む」夢を見ました。神様の選びが先行する。まず神様、そして人。神と神のかたち。その両方があって祝福は受けつがれるのです。では人にも神様にも選ばれていない人がいるのか?

全ての人を祝福したい

『あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、「神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられますように」』。かつてヤコブが兄エサウの長子の権利を奪った時、父イサクは兄エサウを祝福したくても祝福できませんでした。長子以外は祝福できなかった。しかしヤコブは子供も孫も、弟も兄も祝福しました。神様は全ての人を「神のかたち」として創造されました。命を満たし愛情を注ぎ生み出された。だから選ばれていない人はいません。みんな祝福したい。何番目の子か、誰の子か、どんな人か関係ない。「自分は悪い人間だ。だからふさわしくない」「自分は正しい人間だ。だからふさわしい」なんてことさえ関係ない。あなたが神様に向いて聞いて従う時、祝福はあなたのもの。あなたは祝福されるにも、祝福するにもふさわしい人なのです。

祝福するヤコブ。私たちも祝福する。どんな人のためにも。呪いたいと思える人のためにも。祝福は、その人がひどいことや悪いことをしていながら無病息災・商売繁盛になることを願うのではない。その人の中に神様の命と支配と愛があふれることを祈る。そうなればひどいことも悪いこともできなくなる。神のかたちが回復し、新しい歩みが始まる。それが真の祝福。まずは私たちが神様から祝福を受け取り、喜び楽しみ、共に祈りつつ、私たちならではの方法で分かち合ってまいりましょう。

3月10日(日)の礼拝は、創世記第49章1節〜33節から、「呪いを凌駕する神の祝福」と題してメッセージです。


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