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みんなで宣べ伝える

1ヶ月に一度、マルコによる福音書からメッセージです。前回一つの疑問を提示しました。「イエス様はなぜ悪霊に、ご自身のことについてもの言うことを許されないのか?」ということです。悪霊は人間よりイエス様のことを知っているのに。悪霊がもの言えば人間にも説得力があるのではないか。イエス様を伝えるのも楽ではないか。どう思いますか?ということで3月17日(日)のカフェスタイル礼拝では、マルコによる福音書第1章35節〜39節から、「みんなで宣べ伝える」と題してメッセージでした。

伝えるのは私たち

人々が怒濤のようにイエス様に押し寄せました。イエス様はおびただしい人を癒され、おびただしい悪霊を追い出されました。夜遅くまで対応されました。そして夜の明けるよほど前に起き出して『寂しい所(荒野)』でお祈りしておられました。ほとんど寝ていないのではないか?イエス様にとってお祈りこそ安息。父なる神様との語らいこそ一番リラックスできて元気になれる時。私たちのお祈りはもちろん、お互いの交わりもそうでありたいです。しかしそんな安らぎの時も終わります。人々がイエス様を追っかけてきた。追っかけも休みなし。イエス様はすかさず『ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきた』と言われます。『みんなで行って』。悪霊はどんな存在か?悪霊のトップはサタン。神のようになろうとした堕天使。人間を訴える者。偽り者。そんなサタンの手下が悪霊。当然偽り者。信頼してはならぬ存在。確かにイエス様を見た悪霊の『神の聖者です』という叫びは真に迫っています。わが身を滅ぼす真の敵として認めていた。しかし悪霊が人に向かう場合、偽りを忍び込ませます。どこまで本当か嘘かわからなくなります。その手口は創世記第3章を見ればわかります。だからイエス様は決して悪霊に、ご自身のことについてもの言うことを許されなかった。当時、福音を伝えたのは、勝利の側にいた伝令です。神の子にして人間のイエス様の福音を伝えるのは、そしてイエス様の勝利を伝えるのは、敵の悪霊ではなく、イエス様の側にいる私たち『みんな』なのです。

伝えた先にイエス様が働かれる

29節『こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった』。39節『そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追い出された』。まずイエス様の噂を人が伝えました。そしてその後、イエス様と仲間たちが足を運び、癒やしと解放のわざをなさいました。福音とは、戦場の勝利の知らせを国に伝えることから始まります。伝令が伝えた後、本隊が戦利品を携えて凱旋。戦利品を分かち合い喜び合います。同時にその国の支配が広がっていきます。知らせの後に実体が来る。当時の福音のイメージとイエス様の福音のイメージが重ならないですか?でもまだ『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』に過ぎません。とにかく。イエス様はイエス様のことが伝えられた所に必ず足を運ばれ、癒やしと解放を与え、神の国の支配を広げられるのです。イエス様の福音は、私たちみんなで伝えるのです。牧師だけの仕事じゃありません。伝令には褒賞が与えられました。イエス様の福音を伝える私たちみんなにも褒賞が与えられます。ではどうやって伝えるか?そのためにみなさんそれぞれに賜物が与えられているのです。諸教会にもそれぞれ違う賜物が与えられているのです。この教会は?カフェスタイル礼拝?焼き肉やカレーの香りが先に漂い、その後お腹を満たす。そのプロセスも福音のプロセスに似ていなくもないです。私たちはキリストの香りを放つものでありたいと思います。とにかく。それぞれの伝え方があるはず。その伝え方をみんなで持ち寄って、分かち合って、楽しんで活かし合って、イエス様の福音を伝えてまいりましょう。

3月24日(日)の礼拝は、創世記第49章1節〜33節から、「呪いを凌駕する神の祝福」と題してメッセージです。


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